、これを見てくれ!」

 任務を終え、生家に戻った杏寿郎が真っ先に向かったのは炊事場だった。そして突然それを見せてきたのだ。は手のひらを見つめ、掛ける言葉を探す。しかしどうしたものか、全くと言っていいほどにピンとこない。「よかったね」「ありがとう」そのどちらかと思うが、理由もわからないのに答えようもなく、は困り果てた顔をした。それでも杏寿郎は気を悪くするどころか、

「今年はなんと、あの太刀山だ!」

 嬉々として話す杏寿郎の手には、たった一粒の大豆がちょこんと乗っていた。







 睦月。あれは杏寿郎と知り合って初めて年を越した年のことだ。
 南の縁側は、ぽかぽかとした陽気に春が来たとだまされてしまいそうなほどに暖かかった。その一方で、北側は冷たい風が南天を揺らす。その度にガラスビーズのような赤い実がこぼれ落ちてしまいそうで、はハラハラとした心地で見ていた。

「よし、これくらいでいいだろう!」
「もう終わったの?」

 振り向いたは驚いた。杏寿郎の手にはいっぱいの柊の枝が握られている。

「うわぁ、そんなにたくさん?」
「父上と母上、千寿郎、君と君の両親の分だ!君は?」
「わたしはあの、……

 葉の棘を警戒し恐る恐る切った柊は、少々物足りない。どれにするか迷っているうちに杏寿郎に先を越されてしまった。思わず隠した左手を見て、杏寿郎は言う。

のそれは俺の分ということだな!」

 そうだ、といえばそうであり、違う、と言えば違う。杏寿郎には綺麗で見栄えの良いものを。そんな風に考えていたは視線を泳がせた。

「あの、ええっと……
「ありがとう!」
……う、うん」

 頷いたの視線は杏寿郎の首元へ移る。赤色のえり巻き。余った先が犬の尾のように杏寿郎の胸元で揺れていた。

「こんなに寒いのにほんとに春がくるのかな?」

 の呟きに杏寿郎はハキハキと述べる。

「あと数日もすれば春になる!父上もそうおっしゃっていた!そうだ、あれを」

 杏寿郎はさっと草履を脱ぐと縁側に飛び乗り、駆け足で居間へと向かう。遅れてが後を追うと杏寿郎が部屋の奥から大声で呼んだ。

、あっちのほうが暖かい!居間で見よう!」

 畳の上に広げた紙は相撲の番付のように見えた。その上を緋色の目玉がキョロキョロとさまよう。

「何を探しているの?」
「春を探している!」

 要領を得ない返答に、の口は「はる」と気の抜けた声が漏れた。そうしていると、廊下から澄んだ声が杏寿郎を呼びつける。夢中になった杏寿郎は紙面から視線を逸らさない。

「杏寿郎さん」
「うーん……
「杏寿郎さん。瑠火さんが呼んでるよ」
「あ!はいっ、母上!今行きます!……少し待っていてくれ」

 素早く立ち上がった杏寿郎の背を見て、の視線は再び紙面へと移る。

 —— ハル。

 春とつきそうなものをひたすらに探すのだが、すし詰めのように書かれた文字がまるで文様のように映り、杏寿郎が探しているものが見つからない。彼が戻るまでにという思いも虚しく、程なくしてパタパタと駆ける音が廊下を伝い、の元へやってくる。

、春は遅くなりそうだ!」

 そう言った杏寿郎の手には買い物籠が握られていた。



***




 二人がでかけた先は煉獄家から一番近い市場だった。冷たい風がふっと通り、また思い出したとようにの頬をなでていく。
 は首元に手をやった。そして杏寿郎の首元を見る。

「杏寿郎さんの衿巻き、すてきだね」
「母上が作ってくださった」
「いいなぁ」
「巻いてみるか?」
「そんな、いいよ……ほら、わたしもこれを巻いてるから。あったかいよ、杏寿郎さんも……


 少し顔を埋めると、ごわつく羊毛が意地悪をするようにの頬をツンツンと突く。同じように言ってみようと考えたが、はそれを打ち消した。どんな物でも杏寿郎のそれに勝る物がないと思ったからだ。

「杏寿郎さんのもあったかそう」
「うむ!とても暖かい!実を言うと少し暑い!」
「どうして取らないの?」
「春が来たら巻けないからな!今のうちにたくさん巻いておく!」
「ふふっ。それ、瑠火さんに言っとこう」
「む、それはやめてくれ」
「じゃあ、」

 内緒ね。その言葉はそのまま喉の奥へ潜り込む。
 杏寿郎がさっとの手を取り、駆け足で人波をかき分けた。

「この前、デパートで迷子になったらしいな!」
「あっ、あれは……
「ははっ!」
「もうっ、杏寿郎さん笑わないでよ!」
「すまない!だが、こうしていないとまた迷うだろう?」

 皆、同じに見えたのだ。同じような髪型に、同じような洋服。なぜか声までも同じに聞こえ、母の背を追ったはずが知らない夫人に変わっていた。あの時を思い出すと、今も不安に思う。しかし、

「今日は大丈夫だよ」

 金色の跳ねた癖のある髪を見つめるの頬は、じんわりと色づいた。すぐ目の前で、赤い衿巻きがひらひらと合図を送る。こっちだよ、と標となって導いているようだった。手を引いていなくても必ず見つけられるのに、はその手を離せなかった。また、離して欲しいと言ったところでうまく行くとも思えなかった。

「お豆屋さんはどこにするか決めてるの?」
「乾物屋の近くの店だ」
「何ていうお店?」
「忘れた!」
「えっ」
「道は覚えているから問題ない!」

 そして本当にそのまま豆屋にたどり着いた。1升枡に大豆を三枡。中の紙袋の半分ほどに収まった。買い物籠にはまだまだ物が入りそうだったが、今日のおつかいはこれだけだ。何に使うのか訊くと、「炒り豆にするらしい」と杏寿郎は言った。

 通りがかった玩具屋の前に、自分と同じ年頃の子どもたちが群がっていた。鬼やお多福の面がずらりと並んでいる。杏寿郎はそれらに見向きもせず、ずんずん進む。行きと変わらず前を向き、の手を引いている。そんな彼の足を止めたのは、店先に貼られた一枚のビラだった。『節分会』の知らせだ。

「厄除大師様だ」
「有名なの?」
「有名どころの話じゃ……、今年は太刀山が来るとある!福豆を配るそうだ!」

 珍しく興奮気味に語る少年をはキョトンとした顔で見つめた。
 面白そう。そうこぼすに杏寿郎は笑う。それはとても難儀だと。話しによれば、電車も人が溢れ出しそうな程に混み合っているし、道中も牛より遅い行列を進まなければならない。大層な賑わいで豆など見えはしないという。しかも、大の大人がこぞってそれなのだ、自分たちのような子どもが行けば押しつぶされてしまうだろう、と。

「それに君のことだ、豆を拾う前に迷子になってしまうぞ!大きくなったら、俺が取ってこよう!」
「わたしも一緒に行くよ」
「君は家で留守番だ!」
「どうして?」
「鬼が居るかもしれない。豆は父上と母上、千寿郎と君の分と——




 それから煉獄家へ戻った二人は炊事場へ駆けていく。母の背で大人しく抱かれている赤子はすやすやと寝息を立てていた。買い物籠を手渡し、杏寿郎は興味深げに空の鉄鍋を覗いた。

「母上、足りますか?」
「これだけあれば十分です。余ったものはきな粉にしましょう」
!君は餅と団子どっちがいい?」
「気が早いですよ、杏寿郎。神様にお供えするのが先でしょう。さんに呆れられますよ?」

 ん、と息を詰める杏寿郎と目が合う。彼の耳がほんのり染まった。

「わたしはお団子がいいなぁ〜!きな粉に黒蜜をかけるのはどう?」
「それはいい!」

 クスクスと笑う声、パチパチと燃える薪の音。
 ころころ踊る大豆は芳ばしい香りを漂わせた。



***




 が『立春』という言葉を知ったのはその時だった。そして、その前に欠かせないものが節分。あの日、杏寿郎が探した春は暦の中に隠れていた。ならばこの豆は、と考えれば自ずと答えは出るもので、

「あ、厄除大師様」
「うむ!近くを通ったもので寄ったはいいが、あれは難儀だ!」

 日頃鍛錬を怠らない杏寿郎が言うのだ、厄除大師の大騒動がどれほどのものかとは思う。初詣よりも人が多いというのだから、それはもう大変な騒ぎだろう。
 そして、杏寿郎は昔と同じように鉄鍋を覗き込む。

「炒り豆か!どうりで。外まで芳ばしい香りがしていた」
「さっき頂いたばかりなの。これは食べる用にしようと思って」
「千寿郎は?」
「鰯を買いに行ってくれてるよ。もうすぐ戻ると思う」
「そうか!ではこれはこうしよう!」
「あっ」

 杏寿郎の手のひらから大豆がころんと転がった。鉄鍋の中に紛れ込んだそれはもうどれであるかわからない。は杏寿郎を見ると彼は笑みを浮かべていた。

「福が増えるだろうと思ってな!きな粉を作って団子を食べよう!」
「余ったらね」
「む、余らないのか?」

 その声がとても残念に聞こえ、はくすくすと笑みをこぼす。

「大丈夫、十分あるよ」
「それは安心だ!」
「よし、できた」

 いつの間にか声も背丈も変わってしまった。たくさんのことが変わってしまった。
 けれども、あの頃の思い出は変わらない。心の中にずっと残っている。

「あの赤い衿巻き、千寿郎くんにちょうどいいんじゃないかな?」
 
 とても良い案だと思った。だが、杏寿郎の返事はどこかおぼつかない。

「うーん、それもいいが……千寿郎には少し短いかもしれないから、あれはもう少し先までとっておこう」

 そう言い残し、杏寿郎は羽織も脱がずそそくさと北側へ足を向ける。一人残されたは無造作に木べらを動かす。しばらくして冷めた豆を枡へ移すのだが、杏寿郎は度々それをこぼした。も度々豆をこぼすので、なかなか作業が終わらない。

「福が付きすぎたかもしれん!」

 そんな二人を、帰宅した千寿郎は不思議そうに見つめるのだった。