閑静な住宅街を抜け、市街地へ出る。忙しない足取りで向かう先は人の数だけ様々だ。

 杏寿郎は商店に目を向けた。『斉藤商事《ネジと釘》』とある。卸問屋のようだ。ガラス戸の奥ではそろばんを弾く人の姿が見える。勘定方と思われる男はしきりに札束を数え、一巡、二巡。頭を抱え、机に突っ伏した。ばっと勢いよく起き上がった男は正面を見て、慌てて姿勢を正す。杏寿郎は一礼し、歩みを進める。

 —— このままではよくないか。

 ガラス戸に映り込んだ己の身なり。赤く揺れる裾から刀の鞘がはみ出ている。鬼殺隊として、柱として。不測の事態に備えるのは当然のこと。いつもの習慣で持ち出したものの、杏寿郎は腰元に手をかけ思案した。普段なら警官に見つかったとしても逃げ切ることもできるが、それができないとなれば話は変わる。もちろん、自宅に置いていくという考えは毛頭ないが、

「これもやむなし!」

 杏寿郎はあっさりと腰から刀を抜き、くるりと羽織で包んだ。素のままでは目立つ代物も目に触れなければわからない。人通りの多い街中で「その布物は何だ?」と問う者はいない。聞かれても木刀とでも答えておけばよい。もっとも、今から向かうべき場所に日輪刀も炎柱の羽織も何の意味も持たないことを杏寿郎は知っていた。この状況を納得するに十分の理由があった。

Ⅰ.鬼狩りと女学校


 秋晴れの続くこの頃。
 煉獄家を訪れたのは、の母、晴子だった。その手には大きめの鞄が握られており、今から出かけることは察したが、そこにの姿はない。「少しよろしいかしら?」と要件を切り出した晴子は淡々と告げ、頭を下げる。家と付き合いはそこそこ長い。しかし、晴子が杏寿郎へ頼み事を申し出るのは珍しいこと、初めてのことだった。もちろん、杏寿郎の返事は決まっている。

「よろしくお願いします」
「承知しました」

 杏寿郎の返事を聞くなり、汽車の時間があるからと晴子は早足で背を向ける。杏寿郎は自室へ戻り、身支度を整えた。炊事場を覗くと千寿郎が芋を洗っていた。今年は豊作だと藤の者が山のように送ってきたのだ。

「千寿郎も来るか?」
「いえ、僕は家で待っています。芋洗いもありますし」
「芋はあとでもいいだろ?」
「えっ……兄上、芋ですよ?」

 千寿郎は竹籠いっぱいのサツマイモを見た。芋ですよ、と念を押す。杏寿郎はそれを一瞥する。

「芋だな!」
「あ……僕は、芋を洗うので家に居ます」
「そうか。では行ってくる!」
「お、お気をつけて」


 それから杏寿郎はとある場所を目指す。
 校舎を囲むレンガの塀は杏寿郎の背丈も優に越し、聖域を守るようにそびえ立つ。漂う空気は未知。誰一人として中の様子を窺うことはできない。そこへ吸い寄せられるように、数人の男子学生が立ち止まっては視線を向ける。いくら覗いてもその先が透けて見えることはないと知りつつ、彼らをそうさせてしまうものがそこにあった。
 帝都屈指と噂の女学校。
 杏寿郎が歩き着いた先は花蜜を連想させた。

 唯一、その先を望める場所は鉄柵の隙間のみ。先端は槍のごとく鋭く尖り、上からの部外者も立ち入らせまいとする意志がある。周辺は門番以外にも数人の警官が鋭く睨みを利かせている。妙な動きをしようものならあっという間にお縄、留置所送り。目的を成す前にそのような悶着は避けたいのが本音である。杏寿郎は日輪刀がきちんと隠れていることを祈りながら、門が開く瞬間を待っていた。
 ほどなくして、門前に数台の自動車が並んだ。数えるほどしか居なかった男子学生も少しずつ増えていく。杏寿郎はその光景とこの場に居合わせている自分を想像し、少し可笑しく思った。

 鐘が鳴り、一人、二人と女生徒が姿を現した。低学年だろう、大きめの袴を着た者が連れ立って下校している。いくつかの視線が杏寿郎を捉え、足早に去って行く。
 また、杏寿郎を見ているのは女生徒だけではなかった。門から少し離れ、壁に背をつけた男もちらりと視線を寄越した。男はかぶっていた学帽を取り、庇へ指を這わせた。布地は色あせ、周りに比べくたびれている。そこらの青年よりもやや年のいった男は退屈そうにポケットから紙切れを出した。その場から動く様子がないことを見ると、そこが彼の定位置のようだ。樹木の影で人目に付きにくい。目立つのは避けたいという心情がありありと見える。

「ここは警官が多いな」

 資産家の飼い犬。男の口から皮肉めいた答えが返る。
 杏寿郎が紙切れと思ったそれは新聞だった。綺麗に畳み、文庫のように読んでいる。内容は外来語の文字がずらりと並び、何が書かれているのかわからない。不意に、男の視線が杏寿郎の待つ刀へ向いた。だが、布の中には興味がないらしく、無言のままだった。闇夜で異彩を放つそれも陽光の下では話の種にもならない。そのまま鳴りを潜めるのみ。

「婦人も多い」
……参観日だからな」

 男は帽子を深くかぶり直す。すると、彼の側に一人の女生徒がやってきた。彼女はじろりと杏寿郎を見て、表情で問う。—— 彼に何の用かしら?
 目が合った杏寿郎は即座に口を開く。

「君はを知ってるか?」

 その声に数人の女生徒が振り返った。ひそひそと声がする。日傘をさした婦人たちもため息を漏らした。

さん。ええ、もちろんです。よく知っています。呼んで参ります」

 足の速い女生徒だった。待ってくれ、と言ったところで杏寿郎が門の中へ立ち入ることは許されない。彼女は人の流れに逆らいながら校舎の方へ消えていく。再び男と二人となった杏寿郎は何かを発せずにはいられなかった。

「すまない、君まで待たせることになってしまった」
「別に構わない」

 これ以上の関わりは遠慮したいと言わんばかりに、男は再び手元へ視線を落とす。本当だったのね、と女生徒のさえずりが杏寿郎の耳元を掠めていった。


 杏寿郎が正門に立ち、しばらく。さっきの女生徒が戻ってきた。
 婦人たちを蹴散らす勢いで突き進む姿は、杏寿郎だけでなくその場に居合わせた者の目を引いた。

「連れて参りました。さん、早く!」

 彼女に続くは小走りだ。ぎゅっと手提げを握りしめている。を連れてきた女生徒はニヤリとし、新聞を読み耽る男の背を押し帰りを急かした。は絞り出した声で「お、……お待たせしました」と言う。耳を赤くした彼女は草履の先に視線を落とす。その様子を幾人の女生徒と保護者たちが見ていた。正門のど真ん中で立ち止まっているのだから無理もない。

「さて。帰るか!」
「は、はいっ」

 杏寿郎にとって女学生は異質であった。むさ苦しい汗の匂いも、目を背けたくなるような光景も、血の匂いも全くの無縁。女生徒とすれ違う度に甘い匂いがする。時折、人工的な香りが鼻をつく。
 杏寿郎の隣を歩くは何度も手提げの持ち手を握り直し、

「今日は、……どうしたの?」

 それを皮切りに「あ、任務帰り?」「羽織は……」「警察が多いもんね」は次々と話しかける。そして、学校に来てくださるなんて思わなかったと言った。

「今朝方、晴子さんに頼まれた」
「えっ、お母さまに?」
「聞いてなかったのか」
「うん。行けないかもとは言っていたけど……

 夫の商談に同行すると言う晴子の格好は余所行きだった。普段着の着物ではなく洋服を身に付けていた。参観日または商談。当初の目的がどちらであったか杏寿郎には判別しようがない。

「そういえば晴子さんが、」

 鼻先に藤の匂いとは別の香りが漂う。くらりとするような感覚に杏寿郎は立ち止まった。

「君も何か付けているのか?」
「うーうん、わたしはお香があるから」
「ん、そうか」

 杏寿郎はもう一度息を吸う。
 —— 気の所為か。
 すると真横を自動車が通り過ぎた。白煙が悪臭を撒き散らす。杏寿郎は慌ててを覆ったが、あまり意味はなかったらしく、二人でしばらく咳き込んだ。

「やられたな!大丈夫か?」
「う、うん……あ、お母さまが?」
「晴子さんが外泊するかもしれないと言っていた」
「泊まり、そっか」

 の声がわずかに沈む。

「昼食がまだだろう?どこか寄って腹ごしらえをしよう」
「千寿郎くんは?」
「俺は誘ったが、行きたがらなかった」
「なら、あとでお土産を……何がいいかな?」
「芋羊羹以外がいいだろう」

 杏寿郎が出かける間際。一日中芋を洗うつもりなのか、留守番を決め込んだ千寿郎は「ならば、昼餉は要りませんね」とさらりと言った。

「杏寿郎さんは何が食べたい?」
「和食、洋食、俺はどちらでも構わん。せっかくだ、が行きたい店に行こう!」


Ⅱ.女学生とパンケーキ


 御品書メニューを盾に、目の前の青年へ視線を向ける。はじめは跳ねた金色と赤い髪。少し下を向けば凛々しい眉が見えた。もう少し視線を動かせば、太陽のような瞳とかちあった。

「ええっと、ちょっとまって……杏寿郎さんはライスカレーだったよね?」
「うむ!」


 学生最後の母親参観。は母が“行かない”選択をするとは思わなかった。そしてまた、杏寿郎に迎えを頼むと思いもしていない。


 授業終わり。学友たちが窓際で話し込んでいた。「ねえ、正門側にハイカラな紳士がいらっしゃるわよ!」「どこどこ?!」「誰を待ってるのかしら?」「初めて見る御方だわ!」黒板消しのチョークをはらっていたは黙々と日直の仕事をこなしていた。授業が終われば簡単な掃き掃除と帰りの会を残すのみ。終礼後、教室を一番乗りで出ていった友人とは違い、は貴婦人たちが廊下から居なくなることを祈りながら、のんびりと教科書を手提げに詰めていた。教室の隅の女学生に興味を抱く者はほぼ居ない。友人の大声さえなければ“”という学生の存在など誰も気にしなかったはずだ。

さん!』

 丁寧に苗字を付けて叫んだので、廊下が少々ざわついた。

『どうしたの?忘れ物?』
『ハイカラな紳士様がお見えよ!』

 ハイカラ—— の脳裏に浮かぶのは義兄である。以前、西洋の流行りの服と言って奇妙な襟のシャツを着込んでいたことがあった。また姉が来たのか。はそう思った。変わらず悠長に筆入れをしまうに友人が呆れた声で言う。

『なにのんびりしてるの、キョウジュロウさんよ!』

 派手な髪色、黒い詰襟。くるりとした大きな目。
 “を知ってるか?”
 正門に居る青年にそう言われたのだと、友人は興奮した様子で語る。ぐいぐい腕を引っ張る友人を尻目に、は見間違いではないかと疑った。だが、下駄箱を出た瞬間飛び込んできた色合いに嘘はなかった。


 は再び盗み見る。
 杏寿郎は「まだか?」とも言わず、じっと待っていた。
 案内されたのは壁側のテーブル席。の視界には杏寿郎しか入らない。それがまるで二人きりになったように錯覚させる。
 学友、教師、この店の客たち。皆、彼が鬼狩りをしていることを知らない。目の前にいるのは、ハイカラな紳士。自分だけが知っている……
 今一度、は御品書に目を通す。サンドイッチにパンケーキ。チョコレートと苺のパフェ。魅惑的な文字が並ぶ。そして、杏寿郎はライスカレー。

「わたし……ライスオムレツにします」
「よし!すみません!」

 杏寿郎が手を上げると、給仕の女性がすぐにやってきた。

「ライスカレーの大盛りとライスオムレツ、それからパンケーキを一つ。取り皿をお願いしたい。以上!」
「パンケーキ、……
「この店の名物だ」

 御品書を回収され、顔を隠すものがなくなったは下を向く。行きたい店と言われすぐにカフェを思い浮かべた。周りを見ると、同じように女学生や青年がいる。自分たちもその一員。そう思うだけで、は満腹になった気がした。



「いただきます!」
「いただきます」

 はスプーンを片手に手をつけられずにいた。ライスオムレツを目の前に、パンケーキまでたどり着けるか不安に思う。目当ての料理のために分けたいなど、子どものようで言い出せない。すると「優先順位!」と杏寿郎はライスオムレツを取り分けた。

「パンケーキはの分だ。その前に満腹になってしまったら味も素っ気もないだろう」
「あ……ありがとう。でも、杏寿郎さんもお腹いっぱいになっちゃうでしょ?」

 杏寿郎はそれには答えず、ははっと笑うばかりだ。半分のライスオムレツを食べ、それから「うまい!辛い!」とカレーを頬張る。暑いといって詰襟の留め具を外す。大盛りのはずだが、彼が食べると普通盛りのように見える。が半量のライスオムレツを食べ終える頃、杏寿郎も全てを綺麗に食べきった。

「お待たせしました」

 いい頃合いでパンケーキが運ばれてくる。バターの乗ったそれに、たっぷりの蜂蜜をかける。四等分に切り分け、皿に取り分けたはさっそく頬張った。

「ん、おいしい!ふわふわ!杏寿郎さんも食べてみて!」

 嬉々とするに対し、杏寿郎は何か言いた気な顔をする。

「あ、こういう物は苦手?」
「いや。パンケーキが初めてとは、意外だ」

 杏寿郎は軽く微笑む。
 ショートケーキやカステラ、シュークリーム。甘い洋菓子を口にする機会は度々あった。ゆえに、そのような感想を抱いたようだ。杏寿郎はが取り分けたパンケーキを頬張る。「うむ!うまいな」とやや大きめの四分の一が三口ほどでなくなった。

「君はゆっくり食べてくれ」
「うん……

 崩れないよう丁寧に扱うに、杏寿郎は器用だと言った。

「昔、講師の先生が教えてくださったの」

 実に五年越し。テーブルマナーが初めて意味のあるものになった瞬間だった。

「なるほど。住み込みの講師だな」
「パンケーキは、……
「ん?」
「パンケーキは、杏寿郎さんと食べたいと思ったので……

『わだかまりは無いほうがよい。』
 杏寿郎が何も言わないのを良いことに、は黙々とフォークを進める。

 学校帰り。迎えに来た許婚とカフェに行く。
 料理は半分ずつ。同じパンケーキを食べる。

 女学生なら誰もが抱く憧れの的を、目の前の鬼狩りは一日にして全て射抜いてしまった。
 自分には縁遠いと思っていたことが、突然やってきたのだ。口を動かしていなければみっともなく頬を緩ませてしまいそうだった。
 しかし、尚も口を閉ざしつづける杏寿郎にはだんだんと不安を覚える。フォークとナイフを下げ、はそっと顔を上げた。
 
「迎えに行く」
「え」
「もちろん毎日は難しいが、可能な限りそうしよう」
「今日だけの話じゃ……お母さまに言われたの?だったら、」
「今、俺が決めた」

 杏寿郎は言う。これは決定事項だと。
 任務で疲れているのに申し訳ない。刀と羽織があの様になるのは申し訳ない。は杏寿郎に訴えた。けれども「問題ない」と言うばかりで取り付く島もない。

「君が学生であるのも残り僅かだ、妻になってからではできないこともあるやもしれん。さて!このあとはどうしたい?何もないのなら髪留屋はどうだろう」