女学生の隣には、颯爽と歩く青年の姿があった。

 カフェを出たは杏寿郎の提案でとある場所へ向かっていた。外壁をくり抜いたようなガラスの向こうには普段はなかなかお目にかかれない品々が展示されている。それを食い入るように見ているのは少女たち。

 そこを過ぎる間際、『CREAM』という文字が視界を掠める。顔、または手足に。いわゆる美肌クリームである。“女徳の一つ”と謳ったそれは魅力的な品物であった。しかし、の意識は別へと向いていた。気になったのは映り込んだ許婚の姿。揃って鏡を見たことなど一度もない。今この時、は初めて杏寿郎と並んだ姿を目にしたのだ。


Ⅲ.女学生と警察官



 思ったより大きく、思ったより小さく見えた。歳は一つしか違わないと聞いているのに、杏寿郎は成人と変わらない風格がある。それに比べ、はどことなく自分が劣っているように感じた。
 だんだんと遅れがちとなったに気づき、杏寿郎が振り返る。

「すまない、早足だったな」
 
 杏寿郎は隣に並ぶのを待っていた。が駆け寄ると杏寿郎は先程よりゆっくりとした足取りになった。
 セメントで塗り固められた分厚い壁を抜け出すように路地へ抜ければ、木造と瓦屋根の変わらぬ街並みが顔を出す。

「少し待っていてくれ」

 杏寿郎の声に、は立ち止まる。
 ここなら問題ないと判断したのだろう。物陰に隠れたと思えば、ぐるぐる巻きになっていた羽織が目の前で解かれる。日輪刀が白いベルトの定位置に納まり、一枚布の羽織が翻った。 晴々しいそれは陽の下でも際立っていた。厳かで、気高い空気が杏寿郎を包む。

「普段はどうしているの?」
「背に隠したり、さっきのように羽織で隠す」

 女学校ほどではないにしても、繁華街は警官が目を光らせていた。それが裏通りに入った途端、嘘のように居なくなる。昼食のついでの見回り。もしくは、悪事をたくらむ不届き者と出くわさない限り。
 幸い、問題が起きたことは一度もないと言う。稀に捕まる隊士も居るが、大事には至らずに済んでいる。それもすべて「お館様のお陰だ」と杏寿郎は言った。

 鬼殺隊は正式に認められた存在ではない。以前、杏寿郎はそのように話したことがある。人を喰らう鬼を狩る。正しいことをしているはずが、なぜそのような扱いを受けなければならないのか。はそう思うこともあったが、彼が気にしない質らしいことも承知していた。女学校前の警官、あれも善行であろう。けれども、にはどうしてもそれらを同列に並べることができなかった。

「噂をすれば」

 が通りを見ると巡回中と思しき警官の姿が目に留まる。次第に高まる緊張感に、は自然でいることがこれほど大変なことだと思わなかった。悪いことをしていないのに悪いことをしたような気分だ。視界に入る刀の鞘が気になって仕方がない。どうにか隠す方法はないか。完全に隠すにはどうすれば。
 はほんの少し、杏寿郎が居る右側へ歩み寄る。まだ少し。もう少し。杏寿郎の腕に肘が当たり、はぎくりとした。

「そんなに緊張しなくとも、普段通りにしていればいい」

 杏寿郎は慌てる様子もなく淡々としていた。こんなことは特に取り上げるまでもないと言うかのように。

「うん。……でも、何か言われたら杏寿郎さんは真っ先に逃げて。わたしのことは気にしないで」

 もし、留置所に入ったら学校は間違いなく退学だ。もちろん自主退学ではない。退学処分である。たちまち噂が広まるだろう。それでも、はいざとなったらなんでもするつもりだった。鬼はどうにもできないが、警官の相手ならなんとかできる。真の善行を守るため。または、鬼狩りの妻になる者として。杏寿郎が信頼を置く『お館様』に迷惑をかけることも許されない。

「逃げるにしても、その時は君も一緒だ」
「それはダメ!」
「なぜ駄目なんだ?」
「わたしは足も遅いし……すぐ捕まっちゃう」
「心配するな、俺の足なら逃げ切れる」

 が隣を見やると、癖のある髪が揺らめいた。杏寿郎の顔を見上げることもままならない。少し左に避けたほうがいいかもしれない。杏寿郎から距離を取ろうとしただったが、ぐいと腕を引かれ、離れるどころかより近寄った。チリンとベルが鳴り、のすぐ脇を自転車が駆けていく。その合間、警官はこちらを気にする素振りもみせず、談笑をしながら杏寿郎の真横を通り過ぎた。

「自転車のほうがよほど危うい」

 杏寿郎の胸元にぴったりと寄り添ったまま、はぎこちなく頷いた。



 髪留屋に行く。杏寿郎がそのように思い立った理由をは知らずにいた。髪紐を買おうとしているのなら、一つ向こうの通りの店が種類はある。しかし、彼の足取りは目的地へまっしぐらに進んでいるようにも見える。もしかして道を間違えているのでは。そわそわとするに杏寿郎は言う。

「もしや、好みでないのか?」

 くるりと振り向いた杏寿郎は、「今気がついた」という顔で目を瞬かせる。
 —— 好み?
 は考える。この話はどこから始まっているのだろう。
 昼食のカフェでなければ学校。しかし、杏寿郎とそのような話をした覚えはない。校門で友人が振り向き様、にやりとしたのを思い出し、はなぜかドキリとした。

「女生徒は皆同じような飾りを付けているだろう?君の友人もそうだった」

 まさかと思うが、自分が料理を選んでいるあの時も髪飾りを気にしていたのだろうか。彼の話が女学校の校門からずっと続いていたというのか。それで、他の女生徒と違うことを知って……

「好みじゃないとか、そんなことないの。ただ色々とあって」
「色々か!」
「そう、色々と。」

 は無意識に早足になった。併せて杏寿郎の足も早まる。誰がどう見ても全くの他人でないとわかるほどに、ぴったりと横並びになっている。

……友達が厄除けっていうから、一度借りたことがあるの」

 遡ること数年前。はリボンにまつわる話を杏寿郎に話していなかった。初めての参観日の話。リボンを借りたことで厄介事を増やしてしまったことは忘れようにも忘れられない。ちょっとした事件としての記憶に刻まれていた。

—— あとは、杏寿郎さんも知っている通り」

 貴婦人に目をつけられ、散々であった。今では友人との面白話になっていると言うと、杏寿郎は「それは災難だったな」と笑った。

「嫌いでないのなら安心した。さあ、着いた」

 ぽんっと優しく軽やかな手がの両肩に乗った。



Ⅳ.鬼狩りと髪飾り



 この品ならこの場所で。そのような贔屓の店があるのが当たり前の時代。大通りのデパートの存在も捨てがたいが、ゆっくりと選ぶなら老舗に限る。『髪花』へ立ち寄った杏寿郎は店の外で中の様子を窺った。如何せん店は狭く、客が二人、三人と入ればあっという間に満員御礼。先に入って見ているようを促し、杏寿郎は人がけるのを待っていた。

 は棚を見て、また別の方を見やる。が、いつまでも手を伸ばす素振りを見せなかった。時々こちらに視線を向けるのだが、
 —— ん?
 目が合うとふいと視線を逸らす。許婚につれない態度をとられ、杏寿郎は当惑した。だが、次に目が合うとはにかんだように笑うのですぐに安堵へ変わった。
 間もなくして、杏寿郎は他の客と入れ替わりに店内へ進んだ。一点物と書かれた棚を見て、一つ手にした。紅色に染まったリボンは絹地。手触りの良さから見ても間違いのない品だ。

、これはどうだ?」

 それを見て、は躊躇った顔をした。そんな彼女にすかさず店員が近寄り、鏡を掲げる。「結んでさしあげましょうね」と言われ、はもごもごと口を動かすが、ほとんど意味のないものとなっていた。「可愛らしいお嬢さんだこと」と商売人の売り文句が加われば、あとはなるがままである。さあさあ、と椅子に腰掛けるよう促され、束ねていた髪が解かれる。櫛を握るそれも手慣れたものだ。あっという間に結い上げ、形よくリボンを飾り付ける。

「杏寿郎さんはどう思いますか……?」
 
 観念したように言うに、杏寿郎は口元を緩ませた。答えは至極当然。

「似合っているとも」

 ひょいと通りすがりの見知らぬ者を捕まえ訊ねても同じように言うだろう。文句のつけようなどどこにもない。それなのに彼女は心底ほっとした顔をするのだ。
 それに決まりだ。店員も杏寿郎もそう思ったが、当の本人がすっきりしない。手提げを探ろうとする彼女を見て店員が言った。

「お嬢さん、大丈夫ですよ」

と、こちらに目配せする。そして杏寿郎にだけ分かるように懐を叩いた。
 実にらしい。彼女は手持ちの心配をしているのだ。そして店員はにこそこそと何かを告げる。「お優しい旦那様ですね」と言うひと押しは絶大な効果を発揮し、杏寿郎に勘定を済ませる時間を与えるには十分だった。店を出て、は顔を伏せたまま「ありがとうございます」と礼を言った。こちらを見て微笑みはしなかった。それでも、その横顔から思いを読み解くには容易い。

 杏寿郎はの口から何かを欲しいと言われたこともなければ、どこかへ行きたいと言われたこともなかった。ねだられたことなど一度もない。校門で終業を待つ男子。並んで歩く男女。今まで一度たりとも羨ましく思う気持ちがなかったと言えるだろうか。少なくとも、彼女が言わなければパンケーキのことはわからなかった。夢のため、炎柱になることが第一であったがために、言う隙もなかったのかもしれない。

「他は、どこか行きたいところはあるか?今じゃなくてもいい、行きたい場所があるのなら教えてくれ」
「どこでもいいの……?」
「ああ。どこでも遠慮なく!」

 はしばらく考えた後、

「わたし……次は、杏寿郎さんが好きなところに行ってみたいです」
「俺の?」
「はい」

 例えば、山から見た夜景、藤襲山の藤の花もその一つ。段々畑に広がる水面に浮かぶ青空であったり、黄金色に輝く麦穂の美しさもそうだ。その時の音、肌を触れる温度。ここに彼女を連れて、一緒に—— 。そう考えたことは一度や二度ではない。
 どれもすぐに叶うものではなかったが、いずれ行きたい場所はいくつもあった。

「ならば、手始めに相撲を観に行こう」

 それから、歌舞伎、能も良い。杏寿郎の言葉を噛みしめるように、は一つ一つ頷く。

「そうなると、いよいよ暇をしないな!」
「はい。あの、……約束をしてもいいですか?」

 それが如何に不確かで繊細な言葉か。それを知りながら、彼女はあえてそう言うのだ。
 世間ではごくありふれた日常が、どれほど印象に残ったことだろう。

 杏寿郎ははっきりと声にする。果たせない可能性よりも前を見て。

「わかった、約束しよう。俺と君の、二人だけの約束だ」