迫りくる日没。青年は隣を歩く女学生を横目で見た。

 食事を済ませ、買い物をした後は帰宅を考える。帰りに土産を手にすれば今日という日を終えたように思う。それはごく自然な流れで、「そろそろ帰らなきゃね」という彼女に青年は同意する。同意したものの、考える。

「杏寿郎さん、あの電車に間に合うかも!」

 遠くから迫りくる音に、は小走りになる。
 杏寿郎は寸前まで悩んでいた。「、そっちじゃない」それが喉まで出かかったが、また思い直す。
 —— ここは行って確かめるのが良いだろう。
 その結論は杏寿郎の頭の中でのみ、消化されていく。



Ⅴ.鬼狩りと婚約者



 今日はとても待たされる日だ。
 と共に住宅街へ向かった杏寿郎は、邸宅の前で立ち往生を強いられていた。

「ごめんなさい、杏寿郎さん……少しまってて、少しだけ」
「うむ!」

 杏寿郎の隣でしばらく手提げを探っていたは突然しゃがみ込むと、あろうことか道端でそれをひっくり返す。転がった筆箱が開き、中から鉛筆が飛び出した。瞬時にそれを掴んだ杏寿郎がさらに視線を配れば、鞠のような物がころころと四方へ散っていく。それらに気を取られていると今度は布を踏みつけそうになり、慌ててそれも拾い上げる。他にも帳面や教科書、杏寿郎の知らないの学用品があらわになった。まるで昔目にした子ども部屋のような光景が広がっていた。

、ここで荷物を広げると物が汚れて……悪いがそれは君の玩具ではない、返してくれないか?」

 杏寿郎は転がった物を素早く拾い上げた。が、猫の爪が糸を引っかく。これには杏寿郎も焦った。それらは自分の物ではないため、安易に渡せない。解れた糸も「直してやろう」と言いたい気持ちはあっても、細かな模様を理解するだけで日の出を迎えるだろうことは容易に想像できる。

「よしよし、良い子だ。ありがとう」

 そうして荷物を拾い上げていると、杏寿郎の腕の中はあっという間にの荷物でいっぱいになった。

「これは君が縫ったものか?」

 杏寿郎はの方を振り向くが、それは空に語りかけているようなものだった。は手提げをそのままに立ち上がり、袂を探っていた。藤の香りが漂う中、見るからに非力な腕が視界に入る。杏寿郎はなにか言うよりも先に、とっさに持っていた布を被せた。肘上まで袖が捲れていた。自分だけならまだしも、通行人、同じ年頃の青年がじっと見ていたのだ。

!」

 は杏寿郎を見る。腕に掛かった布を見て、はっとした顔をした。それでようやく自分が何をしていたのか知ったようだった。

「君は荷物が多いな!」
「あっ、荷物も、ありがとうございます」

 頬を赤らめ、は慌てて着物を直す。それから手提げに物を詰め込んだ。
 はしたない、みっともない。
 それは女学生としてあるまじきこと。しかし、そのことを考える余裕など今の彼女には残っていなかったのだ。

「家の鍵が見当たらなくて。落としたのかな」
「紐に下げていなかったのか?」
「紐はあるの。あるんだけど、……

 いつも無くさないように手提げの持ち手に紐を通していた。なのに、鍵がない。紐は切れていないのに、鍵がない。ほら、とはそれを杏寿郎に見せる。

「紐しかないな!」

 あたかも鍵が逃げだしたようだ。しかし、現実として鉄の鍵が紐を切らずして抜けることなどありえるはずもなく。杏寿郎は紐の結び目を見て、その意味を探る。

 一方、は開かずの門を見ていた。未だかつて自宅を目の前にして、中に入れないことなど一度もなかった。門をよじ登ったところで奥の鉄の扉は開きはしない。それなのに、こうして待っていれば誰かでてきてくれるのではないか。がそれを切望しているのは明らかだった。

「もう少し待っていようかな」

 それを聞いた杏寿郎は即答する。

「それはやめておいたほうがいい。ついでに言うが、君の荷物は家にある。念のためと晴子さんが置いていった」
「それは、……冗談?」
「いや、本当だ」

 の母、晴子は大きな鞄から小ぶりの鞄を取り出し杏寿郎に手渡していた。「よろしくお願いします」と、他に何かを言うわけでもなく、いつもと変わらぬ顔をして。“かもしれない”というのは実に曖昧だと杏寿郎は思う。
 これは仕組まれたことである。
 密かに杏寿郎が確信を得た傍ら、は現実を直視するどころか有りもしない可能性を探っていた。

「あ……もしかしたら」

 何かある時は必ず母の書き置きが入っている。そう言って、は慌てて郵便受けを開ける。すると一通の手紙が入っていた。自分宛てであることを確認し、素早く封を開けたは閉口する。杏寿郎は何が書かれているのか気になったが、確認する必要はなかった。なぜなら、彼女はもう鍵を探そうとしていなかったからだ。こそこそと手紙をしまい、口を一文時に結んでいる。そこで杏寿郎はずっと考えていた言葉を口にした。

「今日は諦めて、うちに泊まるといい」

 許婚が許婚の家に行かない理由などどこにもない。ましてや断る権利すらないに等しい。そもそも、これほど正当な外泊理由が他にあるだろうか。
 即ち、の返答も一つしか残されていない。

「お世話になります……



 来た道を戻りながら、杏寿郎はに疑問を投げかける。

「今まではどうしていた、今日が初めてではないだろう?」

 の父は不在、姉は遠方。母と二人という中、娘に留守番をさせるのは考えにくい。もちろん、鬼の話をしているのではない。あのような屋敷に年頃の娘が一人と知れれば何があってもおかしくない。新聞を賑わすのはいつもその類である。

「友達の家に、杏寿郎さんが声をかけてくださった子。あの子の家に泊めていただいたりしていたけど」

 と、はそこで言葉を切る。

「今は、婚約者様がいらっしゃるから」

 さすがにもう世話にはなれない。の母も同じように考えていたに違いない。彼女の友人と青年を想像し、杏寿郎は納得する。

「なるほど。それは賢明な判断だ」

 青年はともかく、友人はを追い返してしまうだろう。「あなたが来る場所はここじゃないでしょ!」そのようなことを言って突っぱねる姿がありありと浮かぶ。
 幸い、明日は休日。もちろん学校も休みだ。頼み事をするにも申し分ない。絶好の機会であった。

「最近、お父さまがお手伝いさんを探してるんだって」
「女中か」
「だけど、全然決まらないみたい」
「君が気に入る者は居ないのか?」
「わたしはね、明るい人がいいと思ってる。たくさん話してくれる人。そしたら、……

 そしたら。呟いたはすっと息を吸う。だが、彼女がその先を発することはなかった。

「本当に決まらない時は、俺の知り合いを紹介しよう」
「いいの?」
「ああ。いくらか当てはある」

 誰が加わっても、彼女の代わりが務まることは一生ない。だからといって、今更なかったことになどできはしない。もちろん、彼女の母もそのような理由の破談など願いさげであることは分かりきっている。そうでなければこんな仕掛けをするはずがない。

「杏寿郎さんのお知り合いなら安心ね」

 ほっとした顔をしたを見て、杏寿郎は微笑んだ。袴姿と赤いリボン。どこからみてもごく普通の女学生だ。
 対して自身はどうかと杏寿郎は考える。
 だが、彼女は知っている。それでいながら、隣にいるのだ。
 —— 俺はいつから欲深者になってしまったんだろう。
 学生でなくなる日まで、あと幾日。杏寿郎は指折り数えたくなるのを抑え、視界に映る紅色を眺めていた。


Ⅵ.女学生と夜更し



 二人が帰宅すると、千寿郎は夕餉の支度を始めていた。杏寿郎との好物もある。杏寿郎が話していたのだろう。そう思っただったが、彼の表情を見てそうではないことを知る。一瞬目を見開き、凛々しい眉がやや下向きになった。それはも知る、優しげな兄の顔だった。それから顔は引き締まり、いつもの“杏寿郎さん”に戻る。

「よし!俺は風呂の湯を沸かすとしよう!」
「あ、それはわたしが。杏寿郎さんは座って待ってて」

 すると杏寿郎はの真正面に立ちはだかる。

「今日、俺は非番だ。君は学校だ。つまり、そういうことだ!」

 問答無用。は居間に連れられ、用意されていた座布団にすとんと腰を下ろす。

「あとで手提げの鞠玉を見てくれ。糸が飛び出てしまった!」

 杏寿郎はが答える暇もなく居なくなる。言われた通り、鞠玉を確認すると一つだけ糸が解れていた。
 —— よかった、すぐに直せそう。
 こうしては居られないとが風呂釜へ向かうと、宣言通り杏寿郎は薪を焚べていた。目があった途端、「君はゆっくりしていてくれ!」と追い返される。それならばと炊事場を見に行けば「姉上はゆっくり過ごしてください」と兄同様に千寿郎に背を押される。困ったは再び杏寿郎に申し出るが、

「うむ!千寿郎も張り切っているから、もう少し付き合ってくれ!」

と、やはり座布団に座る他なかった。




 夕餉を食し、片付けを済ませばあっという間に時は過ぎる。
 それはが受け取った鞄を開けた時だった。真っ先に飛び込んできた品に度肝を抜く。デパートの前で目にしたクリームが入っている。

、先に風呂に入るといい。最高の湯加減だ!」

 杏寿郎の声が部屋中に響き、は慌てて小瓶を鞄の奥底へ押し込んだ。
 さすがに一番風呂は入れない。自分はそのような立場にない。の言い分を、杏寿郎も一旦は理解したようだった。

「夕餉前は鍋の湯だと千寿郎に叱られたが、今は問題ない。俺が保証する!だが、君は入らないのだな。それは残念だ」
「そんな、わたしはただ……
「非常に残念だ。残念だな!」
「わ、わかりました、お先にいただきます」

 今日は変だ。それもこれも全て母の企てだろうか。
 はそろりと杏寿郎の様子を窺ったが、「手ぬぐいはあるか?」と尋ねる姿はいつもと変わりなかった。


 いよいよ就寝となり、は困惑する。「お休みなさい」と千寿郎が早々と自室にこもったからだ。土産に本を買ったのは失敗だった。てっきり三人で夜話を楽しむものだと思っていた。ただ、そう思ったのはだけではなかったらしい。「仕方ない!」と言う杏寿郎の後をも続く。が、またしてもは黙り込む。杏寿郎は真顔のまま腕組みをしていた。
 部屋には布団が二組。千寿郎が気を利かせたのだ。

「君はここを使うといい。俺は他で寝るとしよう」
「そんな、杏寿郎さんのお部屋なのに……わたし、あちらの空き部屋をお借りするね」
「それは駄目だ。北側は冷える上に、あちら側は誰も居ない」
「なら、仏間をお借りします」
「それでは君は眠れないだろう?」
「そ、そんなことないよ」
「俺は千寿郎の……君が千寿郎の部屋で寝るか?」
「えっ、そ、それはどうなのかな?」
「そうだな、愚案だ」

 真顔だった杏寿郎はふっと吹き出す。も一緒に吹き出した。一頻り笑い、杏寿郎は「羽織を持ってくる!」と部屋を出る。残ったは布団を敷く。ふと、綺麗に畳まれた隊服が目に留まる。
 なぜか、それが冷たく見えた。


、すまないがそこを開けてくれるか?」
「あ、はい!」

 が慌てて襖を開けると、杏寿郎は厚めの羽織と小ぶりの火鉢を抱えていた。

「ありがとう!少し大きいかもしれないが、無いよりいいだろう」

 今夜は冷えそうだから、と杏寿郎はそれを広げ、の肩にそっと乗せる。

「うむ。やはり大きすぎるな!」

 ほんのりと暖かなそれに包まれ、は全身に火が灯ったようだった。鼻先を掠める香りに、は下を向く。客人用だと思っていたのだ。

「杏寿郎さんこそ、寒くはない?」
「俺はこれくらいが丁度いい」

 風呂を終えた杏寿郎は浴衣に薄手の羽織を着込んでいた。いつも結われている髪も下ろしたままだ。

「今度、君の分も仕立ててもらおう」
「羽織はわたしも持ってるよ、家にあるから大丈夫。ありがとう」
「今仕立てておけば、春までに届く。その頃は君も学生ではないだろうから丁度良い」

 今日はとてもおかしな日だ。何から何まで、ずっとずっと変な日だった。
 不意に、杏寿郎の手がこちらに伸びる。の脳裏に女学校の教えと教室で語らう女生徒の戯れが鮮明に浮かび上がった。「絶好の機会じゃない。私だったら仕掛けていくわよ」誰かが話していた言葉を、他人事のように聞いていたのは間違いだったとは思う。気の利いた言葉が何一つ出てこないのだ。

「あ、あの、わたし……クリームが」
「クリーム?……そう言えば見ていたな。欲しかったのか、すまない」
「ちがうの、欲しいとか、そういうのでは……
「俺はああいうものはわからないから、そういう時は言ってくれ」

 は襖を開けて飛び出したい衝動に駆られた。しかしながら、それは不可能だった。目の前には杏寿郎がいる。たとえ飛び出したところであまり意味はない。そもそもこの家にが隠れる場所など存在しないのだ。
 杏寿郎はそのまま手を伸ばし、の背にある隊服を手に取った。

「ずっと君に頼もうと思っていたんだが……

 と、胸ポケットを探る。

「あっ、それ」

 御守。昔縫った巾着だ。もっと早くに言うべきだった、と杏寿郎は言う。

「鞠のあとで構わない、他のついででもいい。縫い直してくれないか?」

 鈍い色となったそれをは凝視した。記憶では赤色の生地だった。鮮やかな赤は杏寿郎に似合うと。また、赤は厄除けとして。

……もちろん。まってて、裁縫道具を」

 は解けた糸を取り払い、無心で縫った。
 杏寿郎は静かに待っていた。時折視線を感じたが、顔を上げることなく糸を縫い付けることに専念した。できるだけ丁寧に扱った。もちろん、生地が傷んでいたこともある。
 はい、杏寿郎さん。出来たよ。
 そう言って渡してしまうと、どこかへ行ってしまうのではないか。そんな不安が打ち寄せる。
 糸を切ってもは巾着を手放せなかった。炎柱になった報告を受けた時。あの時もそうしたかった。抱きしめてあげたかった。そして、今も。

「んっ、?」

 はっきりと戸惑う声が聞こえる。それでも杏寿郎が後ろへよろけることはない。しっかりと受け止められ、は杏寿郎の胸に顔を埋めた。すっかり色あせた巾着に、知ることのない姿を想像する。

……ありがとう」

 目の奥がじんとするのを堪え、は黙って頷いた。
 チリチリと火鉢の中で炭が燃え、まろやかな熱が部屋の隅々に染み渡る。

……して、女学校はこのようなことも学ぶものなのか?」

 弾けるように離れたを杏寿郎はくすくすと笑う。

「い、いいえ!」
「冗談だ」
「じょ、冗談」
「君は正直だな。少し正直すぎるかもしれない」
「杏寿郎さんほどではないと……

 その動作はとてもゆっくりとしていた。杏寿郎は握りしめていたの手を取る。上から拳を包むように握った。捉えどころのないように思う瞳がじっと捕えたまま離さない。
 気がつけば、吐息がかかりそうなほどに近寄っていた。

「そうだろうか?」

 杏寿郎は笑みを浮かべ、緩んだ手から巾着をすくい取る。は知らずの内に杏寿郎がそれをしまう様を目で追った。しばらくの間、何が起こったのかわからなかった。



 だんだんと夜が深くなる。杏寿郎は布団に入りこそしたが、いつまでも寝る様子はない。いつもの癖。そのように言った。は夜話をしてまだ起きていると言って聞かなかったが、まぶたの重みには抗えなかった。冷たい布団ならもう少し起きていられたかもしれないが、彼の弟はどこまでも抜かりない。天日干しされた布団は暖かかった。何より杏寿郎の声がとても心地よい。

、あの鞠玉は直りそうか?」
「うん」
「そうか、良かった。あのままでも十分に見えたが、仕上がったらさぞ美しいだろうな」
「完成したら、杏寿郎さんにもお見せするね」
「それは楽しみだ」

 それからしばらく昔の話をしていたが、鬼の話は一度も出なかった。
 はこっそりと布団の端から手を伸ばす。すっとした空気が肌を撫でた。
 
 彼はまだこちらを見ているだろうか。
 明日起きて、夢だったらどうしようか。
 手のひらの暖かさも、すべて——
 
 もう確認する気力もなかった。まぶたは完全に蓋をした。

 —— 杏寿郎さん……

 言えない言葉を託し、はできるかぎり強く握り返す。