「さっきからなにしてんの?」
背後の声。洗面台の鏡越しに、私と彼の視線が交差した。彼が何度か廊下を行き来していたのは知っていた。さすがに何十分も鏡を見ていたら気にするなと言う方が変だろう。私は握りしめていた掌を見る。
「⋯⋯あけようと思って。ピアス」
真ちゃんのひげ剃り、万次郎のヘアゴム、エマちゃんのいい香りがするヘアオイル、おじいちゃんの軟膏。その他、各々のお気に入りの歯磨き粉などが並ぶ佐野家の洗面台の前で、私は初めてのピアスを開けようと思った。
何かを成し遂げる――というと、少し大げさかもしれない。けれど私は今年の目標の一つであったそれを未だ達成できていない。夏は「膿んでやばいぜ」と脅され、秋になれば「まだやばいかもよ?」と言われ、とうとう冬になり、年の瀬。家からお歳暮を預かり佐野家に来た私は、本日を来たる日とし、こそこそ洗面台に立ち悪事を働こうとしていた。このくらい佐野家にとってはかわいいものだ。そう考えていた私は大きく誤解していたらしい。訪問前、私は真ちゃんに大きな期待を寄せていたが、真っ向から反対された今、それは若干の失望と大きな不満へ変化した。
「そしたら真ちゃんがさ、『親から貰った体に傷をつけるな』とか言うの」
それに対して昭和的と返すと真ちゃんはますます反対した。『しょぅ⋯⋯まだ早いって言ってんだよ。この前まで腹壊すってアイスクリーム半々にしてたくせにさ』『それ、10年くらい前の話だよ』『ウソ言え』『あと、アイスは関係なくない?』など、ありがちな言い合いをした。結局、膠着状態のまま真ちゃんは約束の時間だからとエマちゃんに引っ張られ、大晦日に食べるためのタイムバーゲンの蟹を買いに行った。そしたら家に残るはずだった万次郎までパリパリ薄皮たい焼きを食べたいと言ってついて行ったので、佐野家は道場にいるおじいちゃんと私を残し、今に至る。そこへいつもの調子でここに来て、ついでに道場のちびっ子たちへ空手を教えていた圭介くんは暇を持て余していたらしい。
「あ、そ。……マイキーどこいったか知らね?」
「たい焼き買いに行ったよ」
「真一郎君は?」
「蟹」
「……蟹」
私は佐野家の親戚で、真ちゃんたちとは従兄妹にあたる。歳は真ちゃんの8つ下、万次郎の2つ上。時々、真ちゃんの妹と間違われたり、万次郎の姉に勘違いされたり、エマちゃんには友達にお姉ちゃんと紹介されたりして、圭介くんとは⋯⋯おそらく従兄妹の友達、そんな関係だった。
春、夏、冬。私は長期休みのたびに佐野家へ泊まりに来ていたので、頻繁に遊びに来る圭介くんともよく顔を合わせていた。気兼ねするほどではないはずなのに、近頃の圭介くんはやけによそよそしい。私が高校生になってから顕著になったように思う。昔は空手で組手もして、アイスを半分コしたことだってあったのに。(そう、真ちゃん、真ちゃんだけじゃないんだよ、アイス半分コしてたの。)それから勉強も教えたり、庭で遊んで――と、若干前後した思い出が急に蘇る。
「真ちゃんの中の私って、たぶん5歳くらいなんだよ。自分はバイク乗り回してたのに、そういうところあるもんね。万次郎は自分も痛そうだから嫌っていうし、エマちゃんは真似したら困るでしょ? 私は自己責任だからいいけど。そういうわけなの」
「てかさ、自分の家でやればいいじゃん」
ごもっとも。ごもっともなんだけど、一人で実行する勇気がない。
「だって、⋯⋯ここだったら誰かいるし、味方⋯⋯は、想定外だったけど」
私は真ちゃんだけは味方であると思っていたので、なので。
「圭介くん、おねがい」
「は?」
「圭介くんなら一思いにやってくれるでしょ?」
勢いでピアスを開けてくれるんじゃないかと思った。
「え、ヤダ。」
「なんで?」
「真一郎君に怒られんのオレだし」
「なるほど、こわいんだ」
すると圭介くんはムスッと不機嫌な顔を見せ、私に言う。
「そんなんじゃねぇよ」
一時期、真ちゃんが東京で不良の頂点だったことを知らないのは“私のママだけ”という疑惑がある。真ちゃんにとって叔母にあたる私のママは、全盛期の真ちゃんを流行りの不良のマネごとをしているだけだと思っていた。今は実に面倒見の良い甥っ子。数年前まで夜な夜なバイクの集団を引き連れて、走り回っていたとは思いもしていないはずだ。圭介くんはそれを知っていて、憧れていた。
「ちがうの? 私は真ちゃんの鉄拳イヤだけど。痛いし」
もちろん、ピアスも痛いだろうから本音で言えばあまり気は進まない。
「なら止めりゃいいのに」
「でも今年のお正月に決めたから。やらなきゃダメなの、こういうのは」
良くも悪くも、融通の利かない性格は誰に似ているのだろう。
高校2年生になったらピアスを開ける。その目標が完遂されない限り、私は年を越せない気がする。なぜピアスかと聞かれてもそこに特別な理由はない。周りでピアスが流行っていたことと、数パーセントの私の中の佐野家の遺伝子がそうさせるのだと思う。遠い昔の記憶、真ちゃんたちのパパで私の叔父が、見るからにハッピーな文字で『ホッピー』と書かれたボトルを持っているとき。人生にはスパイスが云々と言っていたから。
「早くしないと真ちゃんたち戻ってくる、はい、圭介くん」
未開封のピアッサーを義務教育中の圭介くんに握らせる私は我ながら悪女だと思う。
「失敗したらどうすんの?」
「なんとかなるよ」
「マジさ⋯⋯」
呆れ。しょうがないという諦め。
たまたま万次郎たちが買い物にでかけた時間に居たばかりに。万次郎の友人であったばかりに。私と出会ったがために。
「よくわかんねぇけど、こういうのって先に冷やすんじゃなかったっけ?」
感覚を麻痺させるほうが楽という話らしい。圭介くんはパッケージを手の内で転がした。細かい文字を眺め、書いてないけどと呟く。
「んー、寒いから平気じゃない?」
「や、ムリだろ。今日そこまで寒くないって」
「無理じゃない、無理じゃない」
「はぁ⋯⋯じゃあ、もうちょいこっち来て」
「あ、うん」
もしかしたら、私は人選を間違えたのかもしれない。
近い。当たり前だけど、ものすごく近い。
「えーと。あ、髪」
邪魔だとかまとめろとも言わず、圭介くんはするりと前に落ちた後れ毛を耳に避ける。くすぐったいけれど、慣れている仕草だった。
「で、どこ。この辺でいいの?」
「え、そうだね」
「そんなテキトー言う?」
これは、もしかしたら厳しいかもしれない。思い出してコットンにたっぷりの消毒液をつけて耳を拭く間も、ピアスの位置なんて気にしていられないほどに私は緊張した。
5歳のままで止まっているのは私も同じだったのかな。
真ちゃんのこと悪く言ったバツかな。
圭介くんってこんなだったかな。
もっと少年だと思っていたけどな。
「⋯⋯彼氏でもできた?」
どうして急にそんなこと言うの。
最近よそよそしくなったのも、
私の耳をさわるのが優しいのも、
消毒がこなれてるのも、
彼女とか、そういう類なの。
「できてないし、いないけど」
きっと、万次郎のもう一人の友達、三途くん辺りなら容赦なく秒で終わらせただろう。「ついでにもう一個いっとく?」なんて密かにニヤッとしたかもしれない。でも、眼の前にいるのは無言の圭介くん。なんだかんだで昔から優しいところもあって、道場に居たカメムシに「住むとこ間違えてるぜ」と言いながら素手で外に逃がしたあたりから、私はひょっとしたら。
「あの、やっぱりやめておこうかと⋯⋯」
やめてくれると思いきや、まさかのノーカウント。耳元でパチンと鳴ったそれにぎゅっと瞼を閉じる。そして言葉にならない声で、私は恐る恐る圭介くんを見た。痛いと思ったけど痛くない。全く痛くない。
「⋯⋯あけたの?」
「開けるわけないじゃん。コレ、真一郎君に見つかんないように捨てとくわ」
圭介くんは転がったファーストピアスを拾い上げ、プラスチックの残骸といっしょにポケットにしまった。何事もなく、くるっと反転して道場へ戻ろうとしている。
「ちょ、ねえ」
「何?」
「ねえ、さっき」
ただいまー! 真ちゃんたちは発泡スチロールの箱いっぱいに蟹を買って帰ってきた。エマちゃんに赤くなった耳について理由を聞かれたけど、私は答えなかった。万次郎から留守番の御駄賃としてたい焼きを貰い(少し湿っていた)、入念に私の赤い耳を確認する真ちゃんには「圭介くんに聞いてよ」と言っておいた。どうせだからしつこく問い詰めてほしい。どういう心づもりだと。何しろ私もまださっきの質問の答えを聞いていない。
反射的に目を瞑った、あの瞬間。わずかながら唇が触れ合った気がした。
ねえ、さっき私にキスしたでしょ?