放課後の音楽室は少し苦手だ。暗幕で薄暗い教室。ベートーヴェン、モーツァルトにシューベルト。背後から肖像画たちの視線を感じながら、わたしはリコーダーを片手にため息をつく。ケースから取り出したそれを持つ手は重たい。もし今度の試験に失敗したら。
——わたしだけ追試二回目なんてこと……やだ、絶対やだ!
そんな悪いイメージを膨らませ、息を吸った時だった。ガラガラと教室の扉が開き、わたしのリコーダーはピューッと飛び跳ねんばかりにハズれた音を出す。
「れっ、煉獄くん」
ホームルームが終わると真っ先に部活に向かう彼が、剣道場に入る勢いで音楽室にやってきた。ちなみに本日吹奏楽部は遠征に出ている。音楽室は貸し切りだ。
「邪魔してすまない! 俺も一緒にいいだろうか?!」
「も、もちろん。どうぞご自由に!」
煉獄くんはわたしの前の席にやってきて通学バッグを下ろす。全ての教科書を毎日持ち帰っているのか、ずっしりと重そうだ。
「来週試合って聞いたけど、今日は部活休みなの?」
クラスの男子が話していたのをたまたま耳にした。「来週、杏寿郎が大将だって」「うわっマジか、応援行くか!」その剣道部の煉獄くんの肩にはいつもの竹刀袋はなく、代わりにリコーダーのケースが握られている。
「また追試験になったら来週の試合に出られないと言われた!」
「えっ! それってかなりマズいよね?」
「非常にマズい! なのでこうして練習場所を求めてきたわけだが、まさかがいるとは! 君も追試験組だったか!!」
「うん。煉獄くんこそ珍しいね」
煉獄杏寿郎くん。彼とは入学時からずっと同じクラスで、勉強も運動もなんでもこなせる優等生。その彼が追試だなんて、全くイメージにない。もしかしたら初めてかもしれない。
——煉獄くんも苦手なことがあったんだ。
手に届きそうにない彼が少しだけ身近になった気がして、不謹慎にもわたしは嬉しく思っていた。
「君のほうこそ、音楽は得意だと思っていたが?」
と、煉獄くんはわたしを見る。煉獄くんがそう思うのは、おそらく小学校の卒業式でピアノを担当したからだろう。たしかに音楽は好きだ。だが、
「リコーダー、上手く音が出せないんだよね……」
こぶりなソプラノリコーダーは小学生と同時に卒業。中学から登場した少し大人のアルトリコーダーはわたしの手とすこぶる相性が悪いらしい。
「上手く穴を塞げなくて。とくに下、……ほら、小指が」
届きそうで届いていない。なんとも気持ちの悪い状態だ。
「ちょっと手を見せてくれ」
「うん?」
意図がわからず、わたしは煉獄くんに手相を見せる。ずっと前に占ってもらった恋愛線は変わらず薄いままだ。「近からず、遠からず。……離れると見えたりしまして」そう言ってご婦人は顔を引いて目元を細め、わたしの手を見下ろしていた。絵に書いたような分厚い眼鏡が印象的だった。
「いや、正面だ」
「え、こう?」
ハイタッチをするように広げたそれに、
「ああ、なるほど。君は手が小さいんだな」
あと1センチ。今にも煉獄くんの手とわたしの手が重なりそうで、即座に手を引っ込めたわたしに煉獄くんはきょとんとして、心なしシュンとして見えた。
「ちがっ、ごめん! あの、わっ、わたし手汗がすごくって……!」
急に汗が噴き出したのはわたしだけで、煉獄くんは「そうか」と涼しい顔でリコーダーを見ている。
「小指から順に合わせると上手くいく」
「小指……小指?」
「人差し指からではなく、下から順に塞ぐといい」
「えっと……うわ、ほんとだ届く!」
人体の不思議を感じながら、わたしは思う。案外、煉獄くんのほうが音楽は得意なのかもしれない。いや、始めから不得意であったかはわからない。なぜならわたしはリコーダーを吹くことに懸命になっていたので、このとき気づいていなかった。
「今日は遅くまでありがとう。煉獄くんのおかげで次の試験は上手くいきそう」
「それは何よりだ!」
「そうだ、もし煉獄くんが追試験になったらわたしも練習に付き合わせてよ、と言っても応援するだけだけど!」
煉獄くんに限ってそんなことがあるはずがないのに、彼は「よろしくたのむ!」と勢い良く返事をしたのだった。
*
そして試験の日、わたしはめでたく追試験を免れた。煉獄くんはとても上手く吹いていたので、なぜ彼が追試験になったのか不思議でならなかった。そしてあと少しで終わるという時、偶然だと思う。わたしと目があった瞬間、煉獄くんのリコーダーは音符がひっくり返ったような音を奏でた。クラスメートがざわめき、わたしの心臓も異常に騒がしくなっていた。
音楽の授業が終わったあと、煉獄くんはわたしにいう。
「ははっ、恥ずかしながらまた追試験になってしまった! すまないが練習に付き合ってくれるだろうか?」
彼は耳を真っ赤にさせていて、同じ剣道部の男子たちは笑っていた。
「レンゴク~、練習だけでいいのか~?」
もちろん、剣道部のエースが全国大会連覇がかかる試合を欠場するなんてありえないことで。前回の追試験は公欠が理由であったことを、わたしは後に思い出す。また、煉獄くんがあの時音楽室で一度も自分のリコーダーを手にしていなかったことも。
まさかね。そう言い聞かせてわたしは煉獄くんのそれに頷いたのだった。
