きっかけはこの一言だったかもしれない。

「お前ら付き合ってるんだって?」

 真っ白なキャンバスにショッキングピンクを豪快にぶち撒けながら、宇髄先輩は素知らぬ顔でそう言った。それから黄と赤を練り合わせた2本の絵筆でチャンバラの真似をする。それをベッタリとキャンバスに塗りたくると、にやりを笑う。

「う、宇髄先輩には何も教えませんよ」
「えー、そうなの? せっかくだから色々と伝授してやろうと思ったのに。ザンネン」

 いつもなら「そうですか」と軽く流すわたしだが、今日ばかりは筆が止まる。何しろわたし、いや、わたしたち煉獄くんとわたしの間で重大なことが起きている気がしてならないからだ。宇髄先輩は女の子に不自由しないという話だ。少なくとも、わたしよりもその手に詳しいだろう。
 —— 色々って……宇髄先輩はわたしになにを教えてくださるんですか?
 無言ながらも、わたしは全身でその疑問を放っていた。

「……まさかと思うが、手も繋いだことないんですー! とか言わないよな?」

 ぷっと誰かが吹き出した。美術部のみんなが耳を大きくしてわたしの答えを待っている。

「あります、手くらいあります。中学生じゃないんですから……!!」

 手袋、してましたけど。吐息のように呟くと、好奇の目が哀れみへと変わった。宇髄先輩も情がない人間ではないらしい。マジかよと小声で済まし、

「なんつーか、全方向に真面目が張り付いてるもんな、アイツ」
「真面目がだめだって言うんですか?」
「そうじゃなくて。『マジメ』の接着剤が優等生と熱血漢ときたら、どっから剥がしたもんかなーって思ったわけ」

 わたしは無言で絵の具をこね回す。黄、赤、青が混ざり合い、パレットに濁った色が広がった。

 
     *


「美術展の作品の調子はどうだ?」

 部活終わり、煉獄くんはわたしの荷物を一手に引き受け自転車を押して歩いていた。今日は蒸し暑く、首にじわりと汗がにじむ。乗って帰ったほうがいいに決まっているのに、帰りが同じ日はこのような状態だ。付き合い始めて1年半。煉獄くんはいつも優しい。

「もう少し。でもあんまり思うようにいかないなぁ」
「だからこそ楽しいんじゃないか? すんなりいった時ほど記憶に残りにくい」

 わたしはそれにうなずきながら、煉獄くんが対戦相手の名前を忘れてしまう理由を考える。二人で歩いていると他校生に話しかけられる時がある。大抵は煉獄くんと同じく剣道部。立ち話をして盛り上がる様をわたしはいつも少し離れてみているのだが、誰だったの?と聞いても「忘れた!」と言う。相手は煉獄くんのことをしっかりと、それこそライバルのような視線を向けているのに彼はどこ吹く風といったところで「デートなんて余裕だな」という嫌味さえ笑って軽く流してしまう。もし煉獄くんが試合に負けでもしたら、多分彼らはわたしたちのことを意地悪く吹聴するのだろう。そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。だからわたしは言えなかった。手をつなごうなんて、とんでもない。わたしは彼が好き。それで十分だ、と。
 そんなことを思っていると、カラカラ回る自転車のチェーンの音がピタリと止んだ。顔を上げると、そこはコンビニの前。どうやら寄って行こうということらしい。いつもは家の夕食を美味しく食べるために下校時の買い食いは控えている。

「アイスを食べないか?」
「あ、いいね!」

 煉獄くんとわたしは冷凍庫を覗き込む。チョコがいいか、バニラがいいか。迷うわたしの隣で、煉獄くんはさっと一つ手にとった。

「それ美味しいよね、わたしも好き」

 チョコでもバニラでもない。チューブタイプのシャーベットアイス。1つ買ったのに2つ買ったような、ちょっとお得な気分になれる。

「ならこれを分けよう。丸々一個は多すぎる」

 まだ夕食前だから。体を冷やしすぎるから。煉獄くんはこんなときも真面目だった。




 公園の隅でアイスの片割れを食べながら、わたしは宇髄先輩の話を思い出す。わたしは彼の『マジメ』の剥がし方を知らない。もしかしたら、手をつなごうと言ったらそうしてくれるかもしれないけれど、わたしがしたいのはそういうことではないのだ。だから余計にややこしいのかもしれない。現にわたしはアイスを食べ終えることすらもったいないと思っている。なぜならアイスが無くなったら煉獄くんはさっと立ち上がってわたしを自宅まで送り届ける。それでおしまいだ。

「今日、何の日か知ってるか?」
「えっ、今日?」

 不意の質問だった。今日は何の日。煉獄くんの誕生日でもなければ付き合った記念日でもない。煉獄くんの家族の誕生日でもないと思う。もちろんわたしの誕生日ではない。学校のこと、部活のこと。何も思い出せないまま、ほとんど空になったアイスを口につけた。

「……ごめん! なんの日だっけ?」
「今日は恋人の日らしい。だから、俺は手をつなごうと思う!」
「え」

 と驚いている間に、煉獄くんは手を取る。でもこれは、

「煉獄くん、これはどっちかっていうと握手だと思う」

 真正面に向かい合い、手を取り合う。これからもよろしく!そんな雰囲気でわたしたちは手を握っていた。

「だから、こっちのほうがそれっぽいとわたしは思うんだけど……違うかな」

 わたしは横並びになって手をつないだ。煉獄くんのアイスのチューブがグシャッと握り潰され、溶けた甘い水が地面にポタポタ滴る。包みの袋はどこに入れたっけ。

「あ、ごめんわたしが袋持ってた、これに……」

 これにゴミを片付けよう。そう思っていたのに、どういうわけか煉獄くんの顔がわたしの目の前にある。正確には、あったというべきだろうか。

「冷たい」

 ショックを受けたような顔で煉獄くんは呟いた。

「さっき……アイス食べたから」
「むぅ、ジュースにしておくべきだった」
「……ジュースだったらどうだったの?」
「ジュースだったら、……」

 そこまで言って、煉獄くんは押し黙った。この時、おそらくわたしと彼は同じことを思っていたと思う。ジュースだったら、もう少し温かかったかもしれない。何が起こったのかもう少しわかったかもしれない。さすがにレモン味はないと思っていたけれど、柔らかいとかそういうものは何もない。ただ、冷たかった。だけど間違いなくあれはファーストキスだった。


 ちなみに煉獄くんがずっと手を繋がなかったのにはきちんと理由があった。しかも原因はわたしの余計な一言。

「今日は暑かったし、前に君が手汗を気にしていたから、あのアイスを食べたら手も冷えるだろうと思ったんだが……うむ。やはりジュースにすべきだったな」

 煉獄くんはいつも優しい。けれど、もし宇髄先輩のいう接着剤が剥がれきったらどうなるのだろう。わたしは早くもそんな心配をしているのだった。