炎柱はやめてくれ。
 そう言われたのは、煉獄さんがあの羽織を着るようになって間もない頃だった。

「煉獄さん……ってます?」

 隊服に熱が吸い付いている。コンクリートの照り返しが、唯一剥き出しとなった顔と手をちくちくと焦がした。茹だるような暑さ、街路樹から聞こえる蝉の音が私たちの会話に口を挟み、重要な音を運び損ねる。

「いま、何と言った?」
「……もしかして、怒ってます?」

 恐る恐る訊ねる私に彼は目を瞬いた。

「どうして君に怒るんだ?」
「あ、違いましたか」

 もちろん煉獄さんが怒っている姿など一度も見たことがないのだが、閉ざした口元がほんの少し食いしばっているように見え、私はそう思えてならなかった。いつも機嫌良く見えるそれが、小さく何かを訴えているように感じたからだ。

「腹を立ててはいないが、そう見えたのならすまなかった。ただ……率直に訊くが、君はあの男と恋仲なのか?」
「……いま、何と?」
「君とあの男は恋仲なのかと訊いている」

 目を瞬く私を見る目は真剣そのものだった。
 本の数時間前、私は茶屋に出かけていた。鎹鴉から今日は半休と聞かされていた。そこでバッタリ出くわしたのだ、煉獄さんと。合流する前に話していた人物は、

「後藤くん……?」

 隠の青年の名をつぶやくと、また口元が少しだけキュッと動いた。

「えっと、待ってください、私と後藤くんが、ですか?」

 恋仲。というと、あんなことやそんなことを許す仲であろう。私はそれを想像しようと試みたが、それらしいことは思い浮かばなかった。煉獄さんにはそれが想像できているというのだろうか。私が後藤くんとあんなことやそんなことを……。再び想像してみたものの、やはり私には後藤くんは同僚以外、何者でもないようだった。
 思わず笑った私に対し、煉獄さんはクスリともしなかった。いつの間にか街路樹は途切れ、蝉の声が少しだけ小さく感じた。直射日光が全身に降り注ぐ。熱さ寒さも凌ぐ万能の隊服は効果を発揮せず、背中に汗がたらりと流れ落ちた。

「あの……煉ご」

 それから私はその背を追うばかりだった。無言でぐいぐい腕を引く力は弱まることを知らない。決して戦闘時のように呼吸を駆使して走ったりしていないのに、私は煉獄さんの急ぎ足を追うのがやっと。建物の間の路地に入りようやく足を止めたかと思うと、煉獄さんははっとした顔をしてそれを解いたのだった。

「すまない、痛かっただろうか? 影に入ろうと思い急いてしまった」

 ほとんど日焼けのない煉獄さんの肌にするりと汗が滴った。めずらしいこともあるものだ。

「いえ、大丈夫です。……何かありました?」

 私はそろり通りを覗き見た。身についた癖か「鬼の何か」と思いこんだ右手は独りでに刀へ添える。

「違う、鬼は関係ない。さっきの話の続きだが、君はそうなのか?」

 その表情が何を思っているのか想像できず、逆光に恨めしさを覚える。私の前に立ちはだかったまま彼は微動だにしない。

「ちっ、違いますよ、そんなわけないじゃないですか。後藤くんは唯一の同期ってだけで……彼は同僚です」

 これで煉獄さんの口元は元に戻っただろうか。そう思った私は相当な間抜けであったらしい。

「そうか。」

 その一言で本当に怒らせたのだと悟ったのだった。たとえ本人に自覚がなくとも、明らかにいつものカラリとした爽快な声とは違っていたのだ。すると煉獄さんはふっと笑う。

「妙なことを聞いてすまなかった! それにしても、後藤という者はいい男だ。肝が据わっているし指揮力もある」
「聞いたら喜ぶと思います……柱から、煉獄くんから言われたら、絶対に」

 煉獄くんは「ん」と小さく息を呑む。炎柱も駄目で煉獄さんも芳しくないのなら、そう呼ぶしかない。

「……これ、誰かに聴かれたら謹慎で済まないですね」
「そんなことにはならない。俺は気にしない」
「煉獄くんが気にしなくても、周りは気にする」
「そうだろうか?」
「そういうものなんです。きっと優秀な隠が私の頬をひっぱたきにきます」

 隊の風紀が何とかと言いながら、柱になんて口聞いてんだと言いながら。ものすごい剣幕で遠慮なく頬をひっぱたきに来るだろう。何しろ後藤くんは知らないのだ、私が煉獄くんと同じ隊にいたことがある事実を。私がかつて「杏寿郎くん」なんて言っていたと知れば白目を向いて倒れるかもしれない。

「後藤は君の頬を叩いたりしない」
「その……ですから、私はもう前のようには呼べないんです。他の隊士にも示しがつきません」

 寂しいけれど。そうこぼした私は卑怯な女だろうか。偶然というには些か不自然なこの時間について知らぬふりをした。

「ならば、あの蝉の音がある内は何とでも呼んでいいことにしないか?」

 どうせ誰も聞こえはしないだろうから。そう言って、煉獄くんは街路樹を見る。私は「いいですね」「わかりました」そんなふうに答えた。だが、それさえもきちんと届いているのかわからなかった。ジリジリと焦がす熱は地面を這い上がり、私の頬元まで迫ってくる。


「……杏寿郎くん」

 どうせ聞こえはしないのなら。
 見上げたそれは照れた少年の目をしていた。