暑い夏が遠ざかり、涼し気な秋風は気だるい授業も少しばかり良いものに感じさせる。
 先月から放課後が忙しくなった。部活動に加わり文化祭という大イベントが、ただでさえ忙しいわたしたち学生の時間に割って入ったからだ。そしてそれはわたしが所属する部活動が最も忙しくなる時期で、どのくらい忙しいのかと言えば、

「あ゛っー! 気に入らねぇー!!……なあ、お前はココ、赤と黄どっちが派手だと思う……?」

 と、いつも自由気ままにキャンバスを操る天才肌の宇髄先輩が看板の配色に頭を悩ませ、後輩のわたしに助言を求めるくらいに忙しかった。ブーブーと震えるポケットに手を伸ばし、画面を覗く。メッセージアプリの通知は煉獄くん。今日の帰宅時間を気にしている。

「えーっと、……(今日は)」

 と打ちながら、すぐさまそれを削除した。ここ数日、毎日同じような文章を打っている。明日は帰れると思う。明後日ならなんとかなりそう。そんなことをいいながら、休みの予定も全てキャンセルする他ないほどに制作は行き詰まっていた。文化祭の大看板は美術部しか作れない。体操服のジャージ、汚れたエプロン、振り乱した髪。

「ねえ、新しい大きい平筆どこにある?」
「あーこっちこっち!……あ、青のバケツに漬かってるよ」
「やばっ! ってかまって……ここ全部違くない?」

 下絵を見た面々がさっと顔を青ざめる。「あーあ、やっちまった」そんな心の声が聞こえた。殺伐とした美術室を見回し、再度メッセージを打ち直す。

「(ごめん、今日も遅くなりそう。看板もう少しなの!本番楽しみにしててね)……っと」

 送信ボタンを押しながらわたしはそのままポケットへしまった。帰りは部活のみんなで帰宅するので心配ないこともしっかり告げる。
 —— ちょっと、そっけなかったかな……。
 気になってもう一度画面を覗くと、いつもの丸っこい顔をしたライオンのスタンプがポンポンと並んだ。カフェのタンブラーをこちらに向け微笑んでいる。「お疲れ様!」とハツラツとした声が聞こえるようだ。丸っこいライオンのスタンプは、煉獄くんに似ている。


 *


 そんな時間もあっという間に過ぎ、文化祭は学生生活をとても華やかに彩りを添える。

「俺、ずっと前から好きなんだ!」

 降って湧いた言葉だった。目の前の青年を見て、わたしはしばし呆然としていた。彼にとってそれはそうでなかったかもしれないが、わたしには思いがけない言葉に違いなかった。先日まで殺伐としていた美術室。今は華やかに彩られたキャンバスたちに囲まれ、わたしと彼は立っていた。どこのクラスだろう。美味しそうなソースの香りがわたしの胃袋を刺激し、ブーイングを起こしている。女子として赤っ恥な現状にまったく恥じ入りもしないのは目の前の青年がそうでないからだ。クラスどころか名前も知らない。いつ、どこでわたしのことを知ったのかわからない。

「あの、ごめんなさい。わたし、付き合ってる人がいるので……あなたの気持ちには答えられそうにないです。相手は剣道部の煉獄杏寿郎くんです」

 こういうときはできるだけ具体的にいうといい。そんなふうに聞いたことがあった。そしたら大抵は何も言えなくなると聞いたからだ。

「はい、知ってます! 知ってますが、関係ありません!」
「え……?」

 運の悪いことに昼時に美術室へ来る学生は誰も居らず、わたしは呆然としていて、何度もブーブーと鳴っていたスマートフォンの存在を忘れていた。

「ああ、ここにいたのか!」

 その声に目の前の青年はあからさまに肩をびくりと震わせた。わたしは駆け出したくてたまらない。なのに、上履きの裏にボンドが付いたのかちっともそこから動けなかった。ご飯の入ったパックを手にした煉獄くんはわたしたちを交互に見遣る。

「3パックで足りただろうか?そこの君も1パックどうだろう?『かしわごはん』だ! これは彼女の母上の味で、俺も大好物だ!とてもうまいぞ!」

 さあ、と何も知らない煉獄くんはご丁寧にパックを勧める。受け取りもせず、目も合わせず、彼は尻に火が付いたような勢いで出ていった。煉獄くんは彼を引き留めようともしなかったし、視線で追うこともしなかった。ただ、熱々のそれを持ったまま、わたしを見つめていた。

「取り込み中だっただろうか?」
「う、うーうん! ぜんぜん!」
「ならいいんだが、君も腹が空いただろう?」
「うん、もうペコペコ……」

 言ったそばからまたもブーイングが聞こえ、わたしは思わずうつむいた。そんなわたしを煉獄くんはハハッと笑う。
 煉獄くんによるとわたしのクラスは大繁盛で、『かしわごはん』はあっという間に売切れたらしい。定番のクレープやお好み焼きを差し置き、なぜわたしのクラスが『かしわごはん』になったかと言えば、「食中毒になったら大変だから」という理由で炊き込みご飯ならイケるだろうと大雑把な理由であった。味は投票で決まった。わたしのレシピは母の味。
 スマートフォンを見ると、「どこに居るんだ?」と煉獄くんのメッセージとともに腹ペコ顔のライオンが困った顔をしていた。随分探してくれたようだ。文化祭のお昼は一緒に食べようと約束していたのだから無理もない。

「待たせてごめんね」
「俺の方こそ遅くなってしまってすまない」
「そんなことないよ、ありがとう。それより、あのスタンプ……」
「ああ、君が言うようにとても便利だな!」

 最後のスタンプは『今すぐ行く!』と珍しく鬣を逆立てたライオンが汗を流して急いで走っていた。


 *


 午後の美術部の展示について、宇髄先輩の発案により急遽投票が行われたのだが、結果は宇髄先輩の一人勝ち。終了間際、宇髄先輩のファンを名乗る女子が複数人現れ開封の意味を問われるほど一目瞭然だった。さすがにセンパイだけずるい!と反旗があがったが、宇髄先輩はそれを一蹴する。

「それをいうならだってそうじゃん、には絶対1票入る確約がある」

 まさか自分が標的にされるとは思いもせず、そういう事とは無縁と思っていたわたしはとても驚いた。けれどみんなの反応はイマイチ。シークレットにもかかわらず堂々と記名した煉獄くんを誰も責めようとしなかったし、わたしに文句を言う人もいなかった。それはわたしの票が微々たるものだったこともあるかもしれないが、女子たちがいなくとも宇髄先輩に敵う者などいないとみんな知っているからだ。このクレームは後夜祭のようなもの。楽しい文化祭を台無しにするはずがない。それを知ってか知らずか宇髄先輩は「あー、天才はつれーなぁ〜」と呟いた。
 これは後に知ったことだが、あの日宇髄先輩は煉獄くんと廊下でコソコソ話していたらしい。煉獄くんは急に耳を真っ赤にさせて廊下を走っていったという。あの真面目な煉獄くんが、だ。何の話をしていたのかとても気になって訊いてみたけれど、煉獄くんは「人違いだろう!」と言い張って教えてくれない。


「煉獄は誰に入れんの? って訊いたところでどうせ俺には入れてくんないんだろうけど」
「うむ! そうだな!」
「それって贔屓じゃん?」
「そんなことはない、俺は君の絵も素晴らしいと思う!」
「え、そこは『彼氏として当然だ!』じゃないの」
「そんなふうに言ってもきっとは喜ばない。それに俺は、この絵が好きなんだ」
「この絵も、だろ」
「それはっ、き、君は存外に意地悪だな!」