風呂を済ませリビングに向かうと、帰宅したばかりの兄が腕組みをして待ち構えていた。
「千寿郎、なにか隠しているだろう?」
できるだけ自然に。千寿郎はおかわりをするために、ウォーターサーバーにグラスを傾けた。
「何のことですか?」
「母上に聞いたんだが、この頃毎日のように帰りにパンを買っているそうじゃないか」
あっ。思わず千寿郎は立ち止まる。自室のゴミ箱をそのままにしていたのが悪かったのかもしれない。
「最近よく腹が空くので、つい……」
「食べざかりとはいえ、夕食前に毎回というのはいかがなものかと思うぞ」
これは兄として、もしくは教職という立場から。またはその両方だろうか。しばし考えている間に兄、杏寿郎はフッと息を吐く。
「最近、新しいアルバイトの子が入ったそうだな!!」
千寿郎の肩がわかりやすく揺れ、グラスの水が波打った。
「想いの人がいるのなら潔く告げるべきだと俺は思う!」
「お、想い……違います、僕はそんなつもりはありませんから」
「心配するな! 母上には黙っておこう!」
「ちがっ、だから兄上、違うんです!」
真っ赤になって反論する弟を尻目に、リビングには兄の爽快な声が響いたのだった。
千寿郎がパン屋へ通うようになったのは最近の話だ。中学生になったら、下校途中にそこへ寄るのはこの街では通過儀礼のようなもの。本来禁止されている寄り道も、この店に限っては黙認されている。特に混むのが夕方5時過ぎ。学生限定のタイムセールが始まり、どのパンもワンコインで食べられるようになる。なので学校帰りの時間帯はいつも近隣の学生がこぞって押し寄せる。街と学生に愛される人気のパン屋。と、ここまではありふれた話であり、さほど通い詰める理由にはならないのは事実。杏寿郎が言うことも全くの的外れではなかった。
彼女の存在に気づいたのはちょうど二週間前だった。中学生でアルバイトもできない身分、限られた小遣いでパンを買うのは月二回までの楽しみとしていた。その日はたしかカレーパンを選んだ。柔らかく煮込んだ牛肉がゴロゴロ入っていて、少し辛めのルーが人気のパン。今日はとてもラッキーだと思った。
「いらっしゃいませ! お持ち帰りの袋はご入用ですか?」
——え?
ごく当たり前のそれに千寿郎は思い切りトングを落とした。鞄の肩紐がずるりと滑り、アンバランスな身体が思い切りよろける。それに追い打ちのごとくトレーがひっくり返り、店員が慌てて駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫ですか?!」
「だ、だだっ大丈夫です!」
「よかった……あっ代わりのパン、もってきますね!」
その日はどうやって帰宅したのかさっぱり憶えていない。あんな恥を晒してしまったのだ、しばらく通わないと思うところを千寿郎は次の日も通った。その次の日も、また次の日も。月二回どころか小遣いのほとんどをパン代に注ぎ込んでいることに気づいていたが、止められない事情があった。見間違い、他人の空似。それらを確かめるために千寿郎はパン屋へ通った。そして今日、その結論が出たばかりだった。
「あ、これは私のおごり。この前トレーをひっくり返しちゃったから」
「いえ、ひっくり返したのは僕のせいです」
「いいからいいから! でも、お友達には秘密ね」
めったに買えない薩摩芋タルトを袋に忍ばせ、彼女はふふっと笑みを浮かべる。その面持ちが記憶の断片と合致した。優しくて、あどけなくて、ほっとする。
——やっぱり、姉上だ。
もちろん姉と言っても実姉ではない。義理の姉、杏寿郎の許婚であった人だ。だがそれも遠い昔の話であり、今となっては赤の他人そのものであった。おそらく彼女はこちらに気付いていない。なので千寿郎はこのことを杏寿郎には言わないと決めた。パンも飽きてきたのでしばらくあの店には通わないと言った。けれどもそのままになるはずもなかった。
なぜなら、天命とはそういうものだからだ。
*
某日、19時。閉店間際のパン屋にオルゴールの柔らかい音色が流れる。店内には餡パンが1つ、塩バターパンが2つ、食パンの3枚入りが2袋。それだけレジの隣に並んでいた。
「いらっしゃいませ! すみません、もうこれだけになってしまって……」
客の視線が一瞬、そちらに向いた。裏返し忘れた薩摩芋タルトの値札カード。
「あ……こちらもちゃんとした売り物ですので、よかったらどうぞ!」
レジ下からこっそりと取り出したそれに男は視線を落とす。
「それは君が買ったものだろう?」
「いいんです、私はまた食べられますから」
「ちゃんと持ち帰りなさい。俺はここにあるものをいただこう」
「あ……ではどれにいたしましょう?」
「全て!」
「全部、ですか?」
「もちろんだ!」
「あ、ありがとうございます。お会計は――」
それから煉獄家の朝の食卓は毎日のようにパンが並んだ。千寿郎の小遣いも極端に無くなることなく、月二回の寄り道のみ続いている。学校でとある噂話が広がったのもこの頃からだ。
煉獄先生が、パン屋でレジのお姉さんを口説いているらしい。
当の本人は「違う、俺は口説いてなどいない」と言い張っているらしいが、傍から見ればそうとしか思えない。毎日のように閉店間際の時間にあの店へ通い、レジ前で話し込んでいるという目撃証言もある。
「ねー先生、あの人カノジョにするの?」
生徒の質問には真摯に答える。それが歴史教師、煉獄杏寿郎であった。
「彼女?……いや、妻だな」
真正直な返答に、その場に居合わせた数人の女子生徒が寝込んだとかなんとか。
