彼が隠になってどれくらい経つのだろう。私が入隊した時にはすでにあのままそのままだった。視覚情報を遮断させる真っ黒な隊服と顔布は私にはいささか厄介だった。だが、それも先日までの話である。
 私は今とある洋館に来ている。その建物は胡蝶様のお屋敷に似ていたが、ここは鼻につんとくる苦い薬品の匂いはしない。それに代わって漂うのは甘い砂糖菓子の香りだ。それがどんなに贅沢なことか、私はよく知っている。

「失礼ですけど、後藤さんっておいくつなんですか?」
「俺の歳なんか知って何になんだよ」
「別に、ちょっと気になっただけです」
「お前より年上」
「それは知ってます。だって……なんでもないです」
「おっさんで悪かったな」
「そんなこと言ってないですよ」

 後藤さんは口が悪い。何かにつけて文句を言う。だがその文句も大半は致し方ないことと思えるので、気分が悪くなることはない。何より隠としてとても優秀であることは確かで、限られた者しか立ち入れないお館様のお屋敷にも足を踏み入れたことのある人物だ。それは彼がそれに適う人物という証拠である。少し前も「この前入った竈門ってヤツがよー」なんて愚痴っていたけれど、それもこれもお屋敷の出来事で、私は専ら蚊帳の外であった。なのに会うたびに「この前さー」と勝手に話し出す。後藤さんは案外おしゃべりなのだ。なので会話には困らないだろうと思っていたのに、私が質問するまでムスっとした顔をしてずっと窓の外を眺めていた。ふふっと笑うとじろりとした視線が向けられた。

「……なに笑ってんだよ」
「いえ、いつも布の下でそんな顔してるのかと思って」
「そんなことねーよ、たぶん」
「ほんとですか?」

 ならば、よほどここにくるのが嫌だったのだろう。だけど先に喫茶店に行こうと誘ったのは後藤さんだ。蝶屋敷の寝台に寝転び時間を持て余していたところに突然やってきてこう言った。

『今度、10時な』
『すみません、なんのことですか?』
『いや、元気になったらカフェーに行きたいって言っただろ』
『え』
『……は?』

 先日、生死の境から生還した日のこと。どうやら私は朦朧とした意識でそんなことを言っていたらしい。たしかにそんな気がしなくもないが、記憶にないと言ったらこの話がまっさらになってしまうので笑ってごまかし今に至る。私の休養日が終わるこの日、後藤さんはわざわざ休みをあわせてくれたのだ。なので普段とは違う話ができると思っていたのに私が一方的に問いかけるばかりだ。しかし「ふぅん」「おお」「ああ」となんだか要領を得ない返事ばかりで、挙句の果てには黙り込んだ。

「もしかして、ケーキお嫌いでしたか?」
「嫌、というか、食ったことないんだよなぁ」
「私もはじめてです」
「へー」

 そうして目の前にやってきたそれを、私たちはまじまじと見つめる。なんせ初めての西洋菓子でどこから手をつけて良いのかわからない。どこも何も銀の匙でざっくりと掬うのだろうが、なかなか手をつけられなかった。突如「俺さ」とつぶやいた後藤さんを見やる。

「初めてカステラ食ったときもこんなだったわ」
「わかります、なんだか神々しいっていうか」
「ああ、それ。柱みてーなんだよなぁ」
「じゃあ、ケーキはお館様ですね」
「間違いねーわ」
「私たち、食べちゃっていいんですかね?」
「ははっ、罰当たりだな」

 そんな会話をしている隣では子どもがべっとりとバタークリイムをつけて頬張っている。子どもならお館様だって許してくださるだろう。そもそもこれはケーキだ。お金を払えば誰でも食べられる高級菓子。

「お前さ、俺なんかと食ってよかったのかよ?」
「どうしてです?」
「だって、初めてって一回しかないわけじゃん……うわ、これ旨いわ」
「だからいいんじゃないですか」
「あー……そう」

 私の返答が適切ではなかったのか、後藤さんはそれからまたムスっとしてしまって、皿の上に何もなくなっても視点はその上に落ちたままだった。それでも私は刻々と過ぎていく時間がもったいないと思わなかった。私にとってこの一時はケーキを食べる前のあの時間と等しいものだった。

「そういやお前さ、もう一つ寝言で言ってたことがあんだけど……」
「えっ、なんですか?」

 それは知らない。全く憶えのないことで私は後藤さんを随分問い詰めた。だけど後藤さんはさっきのケーキが喉に詰まったようにモゴモゴする。

「なんですか、早く言ってくださいよ」
「止め。こりゃ言えねー。無理だわ」
「ちょっと、ますます気になるじゃないですか!」
「じゃあ返事だけ言っとくけど……俺はさ、そのつもりだから」
「それじゃ、何のことかわかりません」
「まー、寝言だしな。そろそろ出るか」

 私はどんな寝言を言っていたのだろう。後藤さんの答えを逆算する私を、後藤さんはくすくす笑っていた。