田園地帯を抜け、山の奥地を駆け抜けた。民家も片手に余るほどしかないその場所は、時折、喉の焼けた声がこだまする。険しい山道を物ともせず歩み続ける青年に、鋭い視線が貫く。

「縄張りを荒らしてすまない!用が済んだらすぐに帰る!」

 ギラリとした眼は獲物を狩るものとは違っていた。
 人の声が届くともわからない。けれども、青年に襲いかかる者は居なかった。
 ―― 奇妙だ。
 気配がまるでない。

「要、ここで間違いないか?」

 その直後。山林を人ともつかぬ何かが走り去る。行き着く場所は、靄に隠れた茅葺き屋根の民家であった。

「うまそうな童の匂いがする。おお、女子おなごだ。女子の心の臓は格別だ」

 辺りを取り巻くのは、悪と欲の渦。
 異臭が漂い周囲の闇が濃くなった。

「人の子をうまそうなど、随分と歪んだ精神だ」

 颯爽と駆けゆく青年の視界の端に、格子柄のはんてんが映った。目を見開いたまま動かない少女はひっと息を呑む。
 わずかに動いた喉元を見て、奇怪な生き物がせせら笑う。

「来るのが遅いぞ、鬼狩り。あれで最後だ」




8. いつかの未来へ



 ふっと体が浮いた。

 ―― 夢?

「少しの間ここでじっとしていてくれ!」

 ―― 夢じゃ、ない……

 納屋の前で身を潜め、は目の前の出来事を信じられない気持ちで見つめていた。きつく瞳を閉じても、瞼が赤く映っていた。燃えているようだった。寒さ、または恐怖か。ガタガタと歯がなるのを堪えていると、身体が暖かくなる。

「もう大丈夫だ!山はまだ冷えるな!君の家はそこの母家だな?」
「あ、……は、は」

 はい。それすら言えなかった。は返事の代わりに懸命に首を縦に振る。そうか!と弾む声が暗闇に響き渡る。
 それはあまりにも突然だった。紙芝居を最初と最後だけ切り取ったような、奇妙な時間が過ぎていく。

 陽の昇らない山は恐ろしいものだ。
 初めて山に来た者はこぞって気味が悪いとこぼした。山林からなんとも言えぬ視線を感じ、ふと気を抜くと北も南もわからなくなる。草の茂った荒れ地は、足元を見ていても罠に掛かったように谷底へ落ちてしまう。松明をかざしてやっとのことで外に出られる。それでも夜道は御免被りたい。よりもいくつも年の行った大人がそのように言った。

 しかし、この青年は松明を持った様子もない。足元も薄い藁の草履。斧を振りかざすような勢いで、なぜか刀を持っている。身なりはすべて上等、加えてどこか品があった。
 ―― この人、どこから来たんだろう……。どうしてここに。
 震える口元が落ち着き、は杏寿郎を見上げた。

「ありがとう……ございます」

 初めてまともな声が出た。すると、ガタンッと戸板の外れる音がした。


「誰だ!」

 初めに起きてきたのは父だった。その背後では母が様子を窺っていた。

「この人は、」

 それはが口を開くと同時、目の前の青年が声を上げる。

「早朝からすみません!野暮用でこの辺りを散策しておりました!」

「散策?こんな夜も明けぬ内にか?さっき音がしたが……なんだ、あれは」

 は父の声の元へ視線を向けた。林の奥で斧でも切れない大木があっさりと折れ、大きな穴を作っていた。は思わず青年の羽織にしがみつく。ごろりと転がった得体の知れないものが、まだどこかに潜んでいるのではないかと不安に思ったのだ。

「熊よ……例の熊が出たんだわ」

 次に言葉を口にしたのは母だった。それに呼応され、やっとのことでも声を上げた。

「ち、違う、熊じゃない」

 熊があんなものを倒せるはずがない。熊があんな顔をして向かってくるはずがない。嗅いだことのない匂い。聞いたこともない声。人のような顔であるのに人ではない。なのに、人の言葉を話していた。はちらりと青年を見やり、眉を寄せ真剣な顔をした。すると両親の鋭い視線が突然緩む。それは青年でなくこちらを向いていた。

「もう、寝ぼけてるの?」
「寝ぼけてなんかないよ、だって、さっき!」

 ねえ、は青年に同意を求める。しかし、彼はあらぬ方を向いていた。その口元は弧を描き、何食わぬ顔をしている。犬のようにスンスンと鼻を利かせ、

「なにか焦げているようだ」
「あっ、火鉢!」
 
 慌てて母は居間の方へ駆けていく。その間、父は納屋から猟銃を引っ張り出し、林を覗いていた。奇妙に空いた穴に向け銃をかざす。

、熊は一頭か?」
「ちがっ、熊じゃない……
「わかった、それで一頭だけか?」

 は頷くに頷けなかった。何しろあれが「頭」と数えるのか知らない。昔から思い込んだら一直線。全くもって話に耳を貸そうとしない両親に、は必死に訴える。
 はまだ“あれ”が何か知らなかった。知っているのはの隣に居る青年だけだ。

「熊は一頭だけでした。もうここには出ないでしょう」

 は目を見張る。そして父は怪訝な顔をし、青年に言った。

「本当か?」
「私が見てまいりましたので間違いありません」

 それに、出たとしてもずべて自分が狩るから問題ない。そう言って、青年は腰元に手を添える。それを父は一瞥し、ほっと息をついた。

「そうか……。近頃、物騒な噂が目立つもので気が立ってしまった。すまなかった」
「お気になさらず!」

 そうしていると、空が白ばんできた。もうすぐ夜が明ける合図だ。
 そろりと青年の足が動く。

「足袋がっ!」
「ん?」
「お兄さんの足袋、濡れてる。乾かさなきゃ、草履も濡れてるでしょ?」

 雪解け水と枯れ草の霜。
 青年は濃くなった足先を見て、思案した。




 母は竈門につきっきりとなり、朝餉の支度に忙しい。その傍ら、はまだ“あれ”に執着していた。客人へ出す茶の用意をしながら、こそこそと母に言う。

「お母さん、あれは熊じゃないよ」
「猪かもね……秋口に始末されたって話は違ったのかしら」
「違う、猪じゃなかった」
「じゃあ何だって言うの?」

 田舎では昔から様々な言い伝え、迷信が残っている。あるとき、麓の家の子が話していた。
 人里離れた山の夜は、人食い鬼が出るらしい ――

「鬼……

 ぽろりとこぼれた言葉は、思いのほかはっきりと声に出た。

までそんなこと言って」

 恐ろしい光景が目の裏に焼き付いて離れない。脈打つ度に、ぞっとした。もしあの青年が来なければ、自分は今頃どうなっていたのだろう。この家は?母も、父も、ご飯が炊きあがるのを待っているのも……。それを考えるとの開いた口は、再び糊を付けたように閉じてしまいそうだった。は母の背を追いながら目に涙を浮かべ、唇を噛みしめる。

「ほんとうにいたの。ドブみたいな匂いで、変な色で、わたしのこと、……

 “うまそうな童。”

、いい加減になさい」
……違う、違うのにっ」

 あの人はわたしの恩人です。その一言を述べるためにたくさんの息を吸い、吐き出した。なんとか言葉にしようと努力した。しかし、一度ついたしゃっくりは治まる気配がない。

「ほら、泣かない。お客様にお茶を出してきてちょうだい。そろそろ足袋は乾いたかしら?朝餉を召し上がってくださるようにちゃんと言いなさいね。あんな大きな獣を退治してくださるなんて、ありがたいことよ」
「獣じゃ……ヒッ」
「さあ、行ってらっしゃい。お利口さんね」

 そのまま茶を持って飛び出したは思い切り肩を揺らす。青年が待ち構えていたのだ。盆の上で一緒に仰天した湯呑がすっぽりと彼の手に収まった。

「その、ヒッ、どうぞ」
「ありがとう!しかし、鬼のために親子喧嘩をするのは良くない」
「ちが、ヒッ、あの、わた、ヒッ、ちが、ヒッ」
「うむ!話す前にそのシャックリをどうにかせねばな!このお茶を飲みなさい」

 これは客人用の上等なお茶だ。は青年を見上げるが、

「茶は嫌いか?」

 顔を横に振って答える。要らない、それは飲めない。そのつもりだったが、真正面に立たれ湯呑を握らされたは断りようがなかった。ふうふうと息を吐き、ゆっくりと口に含む。

「ほ……ほんとうに鬼なの?」
「あれは悪鬼、人食い鬼だ。君はそれを誰から聞いた?」
「下の……麓のおばあちゃんと、友達」
「麓にはまだ人が住んでいるのか?空き家のように見えたが」
「うーうん、二ヶ月前にみんな引っ越したり、熊とか猪とか……いなくなっちゃった」

 死んでしまった。はそれを言えなかった。
 その影で、二ヶ月前、と青年の顔が渋くなる。

……どうして、お兄さんはウソをついたの?」

 の視線は刀に向いた。赤く燃え上がるように見えたそれは、静かに腰元に収まっている。

「それはすまなかった。しかしながら、君の両親は見ていないのだから仕方がない。だが、俺と君が同じものを見たのは本当だ!それだけでは駄目だろうか?」

 赤とも朱ともつかない眼がを見据えていた。真っ直ぐな瞳だ。
 山里の片隅が全てであるにとって、青年の言葉に反論する知恵はない。父も母もそれを知ったらどうするのだろう。やっとのことで建てた家、親しんだ山。すべて放り出してしまうことなどできるはずもないことを、にはわかっていた。
 知らないほうが良いもの。そういうものがあるのかもしれない。
 自分よりも大きな人、強い人がそういうのなら……

……わかりました。あ、シャックリが」
「止まったようだな!」




 小さな居間は狭く感じ、いつもより明るかった。山林の大穴は薄暗い庭に陽を迎え入れた。暗く湿った空気が太陽の熱と絡み合う。思わぬ副産物である。

「お兄さんが……あなたが暖かいのは、その羽織物のおかげですか?太陽みたい」

 一瞬、本当にそう見えた。白地にひらひらと赤く染まった裾が、太陽の絵を思い起こさせた。

「これは太陽ではない、炎だ。そろそろ乾いたようだな」

 青年は火鉢の縁に立て掛けた竹から足袋を引き抜き、素早くそれを身につける。

「じゃあ、炎のお侍さん?」
「近い、惜しい。が、侍でもない」
「刀を持ってるのに違うの?」
「俺は鬼狩りだ」
「鬼狩り?聞いたことない」
「俺の家は、まだ名乗っていなかったな!俺は煉獄杏寿郎という者だ」
「あっ、わたし、です」
か!」

 鬼狩り。自らをそう称した青年―― 煉獄杏寿郎は突如立ち上がる。そして、くるりと旋回した。

「では、そういうことだ!そろそろ俺は行くとしよう!世話になった!」

 はとっさに舞った羽織の裾を掴んだ。杏寿郎は手綱を引かれた馬のように立ち止まる。

「まってくださいっ!」
「どうした!」
「お腹が空きませんか?お帰りの前に、朝餉を召し上がってください。お腹を空かせたまま山を降りるのは危ないです!」

 は羽織を強く握る。引き止めたい一心だった。
 炊事場からコトコトと音がし、部屋に米の炊ける匂いと山菜を茹でる香りが漂ってくる。じいと見つめる瞳はしっかりとを見ていた。

「それはありがたい!実は昨晩どんぶりを一杯しか食べなかったものだから、腹が空いていてな!お言葉に甘えよう」

 急ごしらえの朝餉は味噌汁とおにぎりのみの質素なものであったが、彼は驚くほどよく食べ、気持ちいいくらい美味しそうに食した。それに気を良くした母はおにぎりを更に二つ追加した。
 町の子は皆白いご飯がほとんどで、少し茶色くなったおにぎりは学校でもからかわれる。それがは恥ずかしくてたまらなかった。

「うまい!」
「本当ですか?ほとんど麦なのに」
「菜葉の塩漬けと煎り胡麻がよく効いている。この漬物も母君の手製か?」
「はい。あ……よかったら、これもどうぞ!」

 は自分の皿を差し出した。用にと母が握った小ぶりのおにぎりが一つ残っている。
 嬉しかった。本当は母のおにぎりが大好きだった。

、歳はいくつだ?」
「九つです」
「九つか!俺はこのとおりすっかり大きくなったから問題ない!君はまだまだだな、しっかり食べてしっかり大きくなりなさい」
……先生みたい」
「ははっ、俺はそんな大層な者ではない!」

 からりとした声で笑うと、杏寿郎は手にしていた最後のおにぎりを頬張る。用意したおにぎりはすぐになくなった。
 それから狭い縁側に腰を下ろし、は奇妙な穴を見て呟いた。

「キョウジュロウ様、わたしの家は貧乏にみえますか?」
「どうしてそのようなことを気にする?」
「最近、母の着物が少なくなっている気がして……女学校に行かせたいと、今はそういう時代だって。せめてあの木に実が付いたらなって、いつもここで見てるんです。梅ならわたしも売れるかもしれないでしょ?でも、全然。生まれて一度も見たことない。たった九年だけど……

 と言ってもそれを気にしたのはここ数年の話だ。先生のような人だった。だから、この人なら何か知っているかもしれない。はそう思った。

「うーん。あれに梅は一生かかっても実るまい」
「どうしてですか?お花は咲くし、枯れてないんですよ?」
「同じような思い違いをしている者を俺はもう一人知っているが……あれは梅ではない。杏だ」
「アンズって、どんなものですか?」

 は杏寿郎の顔を盗み見た。
 柔らかに目尻が下がった顔。
 こういう表情をする大人は大事な何かを思い浮かべているときだ。

「小さな桃のような形をして梅のような実をしている。あの手前の1本は古株、左二本はまだ若い。手入れをすればすぐ実が付くはずだ。それから、その奥も杏だな」

 杏寿郎は山道につづく樹木に視線を向ける。

「梅の木は?」
「ない!」
「え、1本も?」
「これだけ杏があるのも珍しい」
「お父さん、梅の木をいただいたって言ってたのに……
「似ているからな、見紛うことはあるだろう」
「梅は……手入れ、学校の先生に聞いてみます」

 太陽が昇りきり、下山するという杏寿郎に付いても同じく下山する。登校の時間だ。早く家をでなければ町の小学校に間にあわない。学区で一番遠い道のり。誰かと歩くのはやはり嬉しいものがあった。

「わたしの両親は駆け落ちなんです。だからあんな山奥に家を建ててこもってるんです」
「情熱的なご両親だ!」
「情熱というか思い込みというか……

 駆け落ちと言ったら山だ!そう言っての父は未開拓の地へ想い馳せた。杏寿郎を見て同郷かもしれないとこぼしていたが、本当にそうなのか聞きそびれてわからない。
 
「君はいつもこの道を一人で通っているのか?」
……はい、ひとりです」
「そうか。偉いな!」
「そんなことないです」
「立派だ!」
「そんなことないです、全然……キョウジュロウ様こそ」
「俺はまだまだだ。もう少し早く来ていれば、君の友人たちは助かったかもしれない。すまなかった」
「そんなこと……


 人気のない空き家を見ると、寂しさがこみ上げた。少し前までそこに寄って、一緒に山を降りていた。今はもぬけの殻となり、勢いよく伸びた雑草に残った雪が張り付いている。
 もし、この人がもう少し早く来てくれたら。
 隣の家の子も、麓の家の子も、まだ仲良くこの道を歩いていたのだろうか。
 ―― 違う、そうじゃない。
 少し前まで、大人になる前に死んでしまうことなど考えもしなかった。けれどあの一瞬、その境が押し迫った。
 ただ、自分が運良く守られたに過ぎない。
 ―― 運良く……

「その服……キョウジュロウ様は学生さんですか?」
「これは隊服だ。また何かあればこれと同じ服の者に尋ねるといい、悪い者はいない。もちろん俺に手紙をくれてもいい」

 杏寿郎はひらりと羽織を翻す。その背には《滅》と一文字の刺繍があった。

「わぁ……かっこいい!」

 背中を行ったり来たり。その様子に杏寿郎はクスクスと笑う。

「縫製係に見せてやりたいな」
「ホウセイ係?」
「縫製係というのは、――

 鬼狩りのまたの名を鬼殺隊ということ。刀は鬼を狩るときに必要な特別なものだと杏寿郎は言った。また、羽織は炎柱という唯一無二のものであるとも。それを知ったは青くなる。

「ごっ、ごめんなさい!わたし、思いっきりひっぱっちゃった……破れてないですか?」
「問題ない。いつもあれ以上に引っ張られたり振り回しているが破れたことはない」
「鬼殺隊の方は、たくさんいらっしゃるんですか?」
「君の友人くらいは居るだろうな」
「じゃあ、五人くらい?」
「もっといるかもしれないな」
「十人?」
「もっと、もっとだ」
「そんなにたくさん……想像できない」


 ―― もし、わたしが。

 同じように誰かを守ることができる。
 この人のことを、命の恩人を、忘れずに憶えていられるかもしれない。
 鬼がいたことを証明できる。お礼がしたい。命をかけてくれたお礼を。
 
「あの……わたしも鬼殺隊に入りたいです!」

 くるりとした瞳がを見つめた。
 芯から赤く映え、それが光明に見えた。
 何を言うのだろう。「駄目だ」そう言われる気がして、は唇を噛み締めた。

「そうか!ならば十七になる年にうちに来るといい!」
「じゅ、十七?!えっと、ひい、ふう、……八年もある」
「柿が生るな!それに君は今から学校へ行く義務がある。八年はあっという間だ」

 は焦った。八年も経ったら忘れてしまうかもしれない。は慌てて荷物から筆記具を探す。この日に限って帳面が見当たらない。筆もすっかり乾ききっていた。

「キョウジュロウ様、レンゴクとはどのように書くのですか?キョウジュロウ様もどのような字を書くのですか?」
「レンは火に東、ゴクは地獄の獄だ。キョウは……杏の木、あれと同じ。寿と男の郎」
「火と東と地獄とコトブキと……杏の木」
「生家は荏原郡駒沢村。君の家の裏山から高い塔が見える。そこから右に君の手のひらを二つかざした辺りだな!」
「えっと、駒沢村、塔の右側……杏の木……
「荏原郡駒沢村。高い塔、右に二つ。レンは」
「まって、わからなくなりそう!」
「ワハハッ!」

 裏山から見える高い塔。それは都会の象徴だった。夜になると、キラキラと輝いて星と見分けが付かないらしいと耳にした。
 は立ち止まる。見慣れている枯れ草ばかりの田園の先を、幻想を見るように眺めた。田畑が緑に覆われ、蛙が鳴く。山鳥の声が通り、案山子のような藁立てが並ぶ。そして、真っ白な銀世界が広がる。それを、あと八回。

、少し寄り道をしよう!」

 登校前の寄り道。考えてもみない発想だった。

「そんなことしていいんですか?遅刻したら、先生に叱られるのに……
「遅刻したら責任は俺が取る!しっかり叱られよう!」

 軽快な声に圧倒される。は杏寿郎が先生に叱られる姿を想像して可笑しくなった。こんな立派な青年が廊下に立たされている姿はとても不釣り合いだ。バケツを持って、一緒に並ぶところを想像するとますます可笑しかった。

「ふふっ、わたしもしっかり叱られよう」
「さあ、おいで。こっちだ!」

 杏寿郎は手招きする。は誘われるままにそちらへ足を向ける。真っ直ぐに行くはずだった山道を右に入り、さらに細い道を進む。獣道はも知らない道だった。

「大丈夫かな、転げそう。草履にすればよかった」

 お気に入りの下駄は、地面に埋まった木の根を引っ掛ける。

「俺の手に掴まるといい。その荷物は俺が持とう」

 は風呂敷を預け、その手を取った。
 ―― 大きな手。それに、あったかい。
 程なくして、大きな岩が現れた。するとそのまま抱えられ、は岩の上に腰を下ろす。杏寿郎と目線が近くなる。

「ここから真っ直ぐに前を見てごらん」
「真っ直ぐ……あ。」

 いつも木々に覆われ見えなかった場所が顔を出す。真っ先に目についたのは、青い屋根。そして見たこともない町の景色が広がっていた。

「あの青いのはなんだろう」
「女学校だ」
「あれが、……
「女学校でもまた友人ができるだろう。会う人も見るものも、まだまだたくさんある」
「たくさんがいっぱい……
「そうだ、たくさんがいっぱいだ!」

 が居る世界はもっと広いものだ。
 そう言って、杏寿郎は前を見据える。

「君の母上がとても心配していた。近頃、おにぎりを残すと」
「おにぎり……
「今日は嬉しかったと言っていた」

 今朝の小さなおにぎりは久しぶりに食べきった。あんな事があったのに食べ切れた。杏寿郎が美味しそうに食べる様を見て、つられてしまったのかもしれない。


「生きることに遠慮なんかするな」


 は不思議だった。大好きなおにぎりが食べられない本当の理由も、何もかも、すべて見通されている気がした。

 もう、あのおにぎりを美味しいと言ってくれる人はいないと思っていた。外の世界に目を向けることはいけないことだと思った。街に出たいといったあの子は、もう夢を見ることもできないから――


「それに八年もあれば鬼も殲滅しているかもしれない。その時は街を案内しよう!さて、急がないと本当に遅刻してしまう。俺の背に乗ってくれ」

 杏寿郎は背を向け、両手をこちらに向ける。

「いい、いいです!恥ずかしい」
「む、ではこうか?」

 ほら、と杏寿郎は向き直り両腕を前に広げる。お姫様抱っこだ。

「それはもっと恥ずかしい!」
「もたもたしていると先生に叱られてしまうぞ」
「バケツは持たないの?」
「持たないほうがいいだろう?さあ、どっちだ?早く!」
「ええ、ううっ……お、おんぶがいいですっ」
「よし、承知した!」

 促され、は飛び乗った。跳ねた髪の毛が鼻先をくすぐる。くしゃみがでそうになるのを必死に我慢した。
 
「うむ、千寿郎のほうがだいぶ重いな。腕は前に回してしっかり掴まっていてくれ!下駄は脱いでおいたほうがいいだろう。失くしてしまうかもしれない」
「え、うわっ!」

 いつの間にか下駄は脱がされ、杏寿郎は走り出していた。足先がすうすうする。昔、熱を出して町医者に走った父よりも早かった。
 
「疲れませんか?」
「さっきおにぎりを食べたからな!味噌汁もうまかった!どこまでも走れそうだ!」

 さっき居たはずの小高い丘がどんどん小さくなっていく。枯れ草に覆われたあぜ道を颯爽と駆けていく。暖かな背は広く、一足早く春が来たようだった。町へと続く道の分岐点。そこでようやくは地に足をつけた。

「鬼殺隊の人は、みんなこんなに早いんですか……?」
「もっと早い者も居る」
「あれ以上早いなんて、忍者みたい」
「よくわかったな」
「忍者って本当に……いるよね、鬼狩りがいるんだから」


 杏寿郎は街へ行くというので、そこで別れることになった。こっそりと後を追ったはたった三歩で気づかれた。すぐに追い返され、今度は杏寿郎が付いてきた。

「どうして杏寿郎様が付いてくるんですか?街へ行くんでしょう?」
「君が付いてくるから、俺も付いていこうと思った!」

 杏寿郎はさくさくと歩みを進め、いつの間にかの先を歩いていた。これでは彼の後を追うしかない。もう学校は見えていて、人通りも増えてきた。それはとても目立っていたことだろう。
 結局、が校門に入るまで続き、ばったりあった友人と話している間に彼は居なくなっていた。

 さようなら。

 それも言わず、言えないまま。
 鬼狩りはの前から姿を消した。







―― 八年はあっという間だ。』


 あれから鬼は出ていない。猪や熊は稀に出たが、襲われた話も聞かなくなった。鬼狩りという言葉もあれから一度も聞いていない。
 それでも忘れずにいられたのは杏の木があったからだ。あれから果実はたわわに実るようになった。いつか、あの御方にも見ていただきたい。そう思い、何度か手紙を書こうとした。だが、出さなかった。住所をほとんど憶えていなかったこともあるが、なんとなく怖気づいた。


 十七を迎え、塔と名前を頼りには街を目指した。
 その道中、は物売りと出会う。とても錆びていたが、それが妙に魅力的に思えた。

「この刀で昔鬼を切ったって話だ。まあ、ただの迷信だろうがねぇ」
「買います」
「は?」
「買います、それ」
「嬢ちゃん、正気かね?」
「正気です。健康です」

 練習で必要かもしれない。それがあれば本気だと信じてくれるかもしれない。は様々な理由を付け、迷いに迷って刀を買った。

 都会は人が多いと聞いていたが、想像以上だった。彼が言っていた塔も予想以上に高い建物だった。山の上では手のひらに収まるそれらも、いざ地を歩けば、どこにあるのかわからない。

「すみません、煉獄様の御宅をご存知でしょうか?金の派手な髪色をした男性です」
「ああ、煉獄さんならこの脇道から三つ奥のお屋敷だよ」
「ありがとうございます!」

 煉獄という名字が珍しいのかもしれない。街中を歩き、たどり着くまでそう時間はかからなかった。立派な門構えに気後れした。

「御免下さい」

 もし、違っていたら。もう忘れているかもしれない。
 そんな不安を覚え、もう一度は声を上げる。

「御免下さい。わたくし、と申します」

 廊下を走る音がする。玄関の戸に人影が映る。
 それが開くまで、はじっと前を見つめていた。

 あの時本当は、「もう関わるな」そう言いたかったのだとは思う。すっかり忘れて暮らしているほうが良かったのかもしれない。ただ、性格は両親から引き継いでしまった。簡単に忘れるはずがない。忘れるわけにはいかなかった。
 見知らぬ者のために、命をかける人を。


 ―― ああ、緊張する。お会いしたらまずは挨拶。それから、お礼を……


「すみません、おまたせしました」
「ご無沙汰しております、わたくしと申します。――


 のそばを番の目白が飛んでいく。
 もうすぐ、杏の花が咲く。