7.はてしなく




 帰り着いた千寿郎を玄関先で出迎えたのは、顔面蒼白の父であった。それから遅れてやってきたのは古美術屋の店主。目の前の男たちは千寿郎へ一斉に何かを告げようとする。だが気が急いているのか、何も語らぬまま彼らの口元は金魚のようにぱくつくばかりだ。千寿郎が二人の顔を交互に見ると、古美術屋の店主が息を吹き返したように言った。

「かっ、帰ってきた!」

 それに続き、槇寿郎も口を開く。

「当たり前だ。ったく、いい加減なことを」
「そりゃ旦那、勘違いするでしょうよ……

 店主は千寿郎の元へ近寄るとぽんぽんと軽く肩を叩き、煉獄家を後にした。

 何があったんだ。千寿郎は槇寿郎に問う。しかし父は「おかえり」と言うだけで詳しく語ろうとしない。小さな声であの野郎と小言を漏らし、それを払拭するがごとく大きな咳をする。そして、はたと千寿郎の後ろを見やった。

「千寿郎、そちらは?」
「あ、色々ありましてこのような格好に。またしばらくの間、我が家に泊まっていただくことにしました」

 二人のやりとりを目の当たりにしたは慌てて頭を下げる。

「すみません、お世話になります……!」
「な、さん?」

 槇寿郎は呆然とした表情をした。
 そこで千寿郎は自分が慌てて家を飛び出したことを思い出す。一度決めたことを撤回するのは気が引けたが、その意志は揺るがなかった。

「父上、見合いの件で話があります」
「ああ……。それより二人とも、疲れただろう。早く上がりなさい。今、お茶を淹れよう」

 話はそれからでも遅くない。と、槇寿郎は「父上」と呼び止めた千寿郎をさらりとかわし、ひときわ疲れた顔をして台所へと姿を消した。

……よろしいのでしょうか?」

 やはり戻ってはいけなかったのではないか。そうこぼすの手は、不安気にワンピースの裾を握りしめている。

「大丈夫ですよ。さ、どうぞ上がって」

 はしばらく躊躇していたが、千寿郎が優しく背を押すと「お邪魔いたします」ともう一度頭を下げた。靴を脱いだ彼女はほっと息をつく。しかし、一歩踏み出しよろめいた。千寿郎はとっさに手を取りの身体を支える。

「すみません、足がもうクタクタで……
「草履を、あとで一緒に荷物も取りに行きましょう」
「そんな、一人で行けます」
「いえ、付いていきます。妙な事になったらさんも困るでしょう?」
「あ……はい。ありがとうございます」


 千寿郎はそっと父たちが駆けてきた廊下を覗いた。その廊下は自室へと繋がっている。
 ―― ああ、やっぱり……
 廊下に小物が散らばっている。キラキラと光るのは昔兄から貰ったビー玉だ。おそらく箪笥の引き出しは今もひっくり返ったままになっている。色々な物、思い出の品が散らばっていることだろう。こんなところを彼女に見せられない。そう思った千寿郎だったが、背中越しに「泥棒ですか?」とが心配を寄せる。

「いえ、あれは……僕です。急いでいたものですから」

 大金を持ち出し、あのような部屋を見れば誤解するのは頷ける。それに街の噂が加われば、誰でもそう思うに違いなかった。
 菓子折りが必要だ。「あの野郎、何が駆け落ちだ」と父の文句もひっくるめ、千寿郎はこの騒動のすべてが丸く穏便に笑い話となることを願うばかりだった。



 その後、千寿郎が見合いの話を切り出すと、槇寿郎は「もう断った」とあっさりと述べた。それきり深いことを言わないので、断ったのではなく断られたのかもしれないと千寿郎は考えた。だが、槇寿郎の異変はそれだけにとどまらなかった。が煉獄家へ戻ってきたことも何も言いはしない。あまりにも口を出さないのでさすがに気味の悪さを感じたほどだ。また以前のように酒浸りになってしまうのではないかと一抹の不安を覚えたが、幸いそのようなことには至らなかった。その代わり「千寿郎、見合いのことは気にするな」「さんも整うまで家に居なさい」そのようなことをしきりに言った。そして、時々茶を淹れる。それがまあ美味い。度々が褒めるので、槇寿郎も満更でもない顔をする。

「わたしが淹れるよりもうんと美味しいように思います。同じ茶葉なのに……何か特別にコツがあるのでしょうか?」
「いやぁ、そんなものは……ただ、昔、妻が淹れていたのを思い出してね。それを真似ているだけだよ」



 数日後、は蕎麦屋で働くことになった。評判は上々。手際が良いと店主に太鼓判を押され、忙しい日々を送っている。この頃、蕎麦屋の店主は会う度に「ずっとウチで働いてくれていいのになぁ」と言う。もちろん彼女の事情も承知している。それでも店主の独り言は日に日に増し、決まって「千寿郎さんもそう思うでしょう?」と訊ねる。それをのらりくらりとかわしていると、たちまち不機嫌になるので手に負えない。

「君!俺の言いたいことがわかるかね!?」

 ずいっと前のめりになる御仁に千寿郎は思わず後ずさる。「いらっしゃいませー!」と店先から聞こえるの明るい声が起爆剤となって二人の間に転がった。

「わ、わかりますよ!さんが居なくなったら寂しくなりますよね」
「そう、そうなんだ。だからよ、千寿郎さんがちょろっと口添えしてくれたらパッと決まるだろ?」
「ちょろっとと言われましても……

 千寿郎の視界に張り紙が映り込む。乱雑な文字で『従業員への不要な声掛けは固くお断りいたします!』と書かれていた。
 善処しますと答えた千寿郎に、店主は最後まで納得しない様子だった。それもすべて、刻々と彼女の帰郷の日が近づいているからだろう。




 出逢った日からひと月。
 千寿郎とは再び杏の木を眺めていた。花は散り、枝木は青々とした若葉に覆われている。

「あ、千寿郎さん見てください!あの奥の木!」

 は声を弾ませる。
 彼女の視線を追った千寿郎も同じく声を弾ませた。

「実だ」

 葉に紛れ、緑色の小さな粒が二、三。その奥にもいくつか見える。

「実ですね、杏の実!」

 の視線は青空の先にあった。もう少し経てば粒が膨らみ、たっぷりの陽を浴びた果実は色をつける。日々強まる日差し。初夏を感じる日もそこまで来ている。

「わたしの実家にも杏の木があるんです。花はあまり咲かないけれど、沢山の実をつけて……。じつは、わたしもずっと梅の木だと思っていて。それを教えてくださったのも、杏寿郎様なんです」
「そうだったんですか、僕には教えてくださらなかったのに……
「たぶん、千寿郎さんならご自分でお気づきになると信じておられたのではないでしょうか」

 千寿郎は空を見た。まだかまだかと思い、言いたくてウズウズしている兄の姿が浮かんだ。

「そうでしょうか」
「ぜったいそうですよ!杏寿郎様とお会いしなかったら、わたしは今も梅だと思っているだろうし、おばあちゃんになってもずーっとそう思っていたかも」
「おばあさんになったさんか。うん、そんな気がします」
「え、冗談のつもりだったのに」
「ははっ、僕も冗談ですよ」

 初夏をすぎればあっという間に柔らかい橙色に熟れる。摘み取った内の半量は市場に売りに行くのだとは言った。

「収穫したら千寿郎さんと槇寿郎さんにもお送りしますね!そのままでも良いし、蜜漬けも美味しいと思います!」
 
 実った杏を想像したから。
 それとも、この木を知ったから。
 
「その前に……僕も、その木を見に行ってもいいですか?」

 言ったはいいが気恥ずかしさは拭えない。徐々に火照る頬も隠しようがなかった。

「この辺りでは杏の実はあまり見ないので……あっ、人手が要るのなら収穫も手伝います。荷物も僕が持ちます。木登りは自信がありませんが、鍛えているので多少はお役に立てるのではないかと……その、ご迷惑でなければの話ですが」

 慌てて取り繕ってみたものの、飛び出す言い訳はことごとく自身を追い込んでいく。一山越えて、杏の木を見に行きたい。こんなことを言う男は自分だけではないだろうか。

「ぜひ、ぜひいらしてください!本当にたくさん生るんです、もう、籠が足りないくらいに!」

 の表情は清々しい。また、嬉しいと笑う顔は少しだけ幼く、頬は熟れた杏のように赤かった。

「あの、千寿郎さん。……少し変なこと言ってもいいですか?」

 一瞬高鳴った鼓動を隠すように、千寿郎は咳払いをする。

「ええ、どうぞ。何でも」

 はもったいぶった。あまりにもったいぶるので千寿郎は何を待たされているのか忘れるほどだった。杏の木の下で、墓の前で、何を待っているのか。

……出るんですか?」
「は、……え?」
「お借りしていた部屋です」

 出る、出る。もちろん、鬼ではない。
 ともすれば、この世のものではない何か。

「ええと……僕は見たことはないけれど、昔は弟子を取っていたからな……もしかしたら、そんなこともあるかもしれないですね。家も古いですし」

 代々続く鬼狩りの家系だ。恨まれていると思いたくないが、様々な情や念が染み付いていても不思議ではない。

「そ、そうですか……実は、――

 が煉獄家で世話になって二日目の晩。布団に入ったはなかなか眠りにつけなかった。色々なことが頭を巡って休まらない夜だった。うつらうつらと微睡む中、遠くの方でささやく。

「誰かがワハハって笑うんです、わたしのこと。それでその……いえ、やっぱり忘れます」

 は訂正するように首を振る。ちっとも怖くなかった。たぶん寝ぼけていたのだと言い直す。しかし、千寿郎は彼女の言わんとすることが手にとるようにわかった。

「なるほど。あの晩、僕も妙な夢を見たんです」
「千寿郎さんも笑い声を?」
「いえ、僕は笑い声ではなかったけれど……遺言のようなものかな」

 その言葉を直接耳にしたことはない。
 頭を触れたのは、温かな手。忘れられない、兄の手であった。
 千寿郎は答えを述べるごとく、笑みを浮かべた。

「もう一晩寝たら、またお会いできると思いますか?」
「どうでしょうね、会おうと思うとなかなか現れてくれない。夢とはそういうものですから」

 もし、また会えたなら。今度は何を話そうか。
 柔らかな風が舞い、二人の背を撫でていく。さわさわと新緑が騒ぎ、木漏れ日が揺れた。
 
 それは優しく、陽だまりのような。
 いとおしき人の面影。






 月日は流れる。生きていれば、必ず。
 こんなにも穏やかな日がくると誰が想像しただろう。

 ―― 兄上は、はじめから剣士にさせるおつもりなどなかったのでしょう?

 この日、煉獄家の庭先は一段とにぎわっていた。縁側では少し変わった組み合わせの二人が腰を下ろしている。竈門炭治郎、。二人は千寿郎の予想通り、とても馬が合うようだった。語らう二人を見守り、千寿郎は台所へ向かう。嬉しい忙しさだ。せっかくだ、茶菓子はおもたせにすると決めた。「今日は奮発したんだ!」と笑う炭治郎の言葉も気になった。さあさ、と急ぎ手土産を広げた千寿郎は息を呑む。


 こそこそと縁側の様子を見に行くと、二人はにこやかに談笑していた。剣士の話、そして兄の話。それからが買った刀の話をしている。の刀は無事刀鍛冶の元へ届いたと知らせが来た。あれから暫く経つが、一向に仕上がったという連絡がない。聞いた話によれば「もう戦いはないのだから」とそれはそれは丁寧に研磨しているらしい。が、単に研ぎ惜しみしているだけのようにも思える。彼を知る者によれば「マグロ包丁はもう飽きた」そのような小言を漏らしていたと専らの噂だ。

「ところで、祝言の日は決まった?千寿郎君、なかなか話してくれないからな〜、恥ずかしいんだろうなぁ」

 千寿郎に気づいた炭治郎はむふふと笑みを浮かべる。その隣では唖然と炭治郎を見つめていた。
 たまらず千寿郎は駆け出す。居ても立っても居られなかった。
 まだ、何も話していない。何も告げていない。
 なのに、彼の話は余興まで進んでいる。「俺は歌がいいと思うんだ!」それを耳にして黙っていられるはずもない。
 彼を止めるのが先か、それとも、箱いっぱいに詰まった紅白饅頭について説明を求めるのが先だろうか。

 猶予なき悩みの種に、千寿郎は即断を迫られる。思えば彼女と出会った日は大安だった。そして今日はと考え、覚悟する。
 大安の上をいく天赦日。この想いを伝えるには十分すぎるほどに恵まれている。



- 了 -