人生に一度や二度、ここぞというときはあるだろう。

 丸テーブルの6番席。甘ったるいコロンに紛れ、渋い煙草の匂いが漂っている。勘定台へ視線を向ければ、あでやかな女性と目が合った。にっこりと微笑まれ、たまらずそのまま俯いた。


6.追 憶



 千寿郎は喫茶店に来ていた。店は先日訪れた場所と同じように賑わいを見せている。ただ、違っているのは客の姿だ。頬を緩ませた男たちを見て、どこに気を置くべきか考えた。仕方なくテーブルに敷かれた薔薇柄の布に視線を落とすと目の前に影が落ちた。

「千寿郎さん?」

さん」
 
 良かった。いや、悪かったのか。千寿郎はを見て、一先ずほっとしたのは違いなかった。彼女は白いエプロンを身にまとい、髪は流行りの型に結っていた。別れ際の印象とは大きく異なった姿。声を聞かなければすぐに気づけなかったかもしれない。それで千寿郎は店が繁盛している理由を理解する。この店の店主は間違いなく目利きだ。
 —— それにしても……
 視線を感じ、元を探せば一人の女給が鋭い視線を向けていた。「お客様、コ、コーヒーはいかがですか?」と、は明らかに意思と反したぎこちない笑みを浮かべる。どうやら彼女にはお目付け役が付いているらしい。

……では、コーヒーをお願いします」
「か、かしこまりましたっ」

 一度席を立ったは程なくして盆を抱えて戻ってきた。ゆっくりとした足取りは見ている方が不安に思う。その原因は履物にある。近頃、街でよく目にするものだ。革靴のパンプス。おそらくは初めてだったであろう。濃紺のワンピース、白いエプロン、銀盆でさえ初めて見たのではないだろうか。視線を泳がせ、「せ、千寿郎さんも、こういうお店にご興味がお有りなんですね……」と他人事のようなに千寿郎はため息をこらえきれなかった。

「そう見えますか?」

 疲弊混じりの一言に、はばつの悪そうな顔をして「……いいえ」と消沈する。すると何を思ったのか、は千寿郎の隣に椅子を寄せた。

さん!?」

 そのまま腰掛けてしまえば、互いの尻がくっついてしまいそうだ。

「すみません、こうしないと叱られるんです」
「え、なぜ叱られるんです?」
「それは……この店の規則なので」

 小声で話すは頬を赤らめ、何とか距離を置こうと身を引いた。しかしながら、すでに身体の半分が椅子からはみ出ている。椅子を離しても叱られる。転げ落ちても叱られるだろう。千寿郎は周りを見てすぐさま視線を戻す。甘ったるい香りに何か仕込まれているのではないか。そう誤解するほどに、この場所の空気は変わっていた。このままではゆっくり話もできない。千寿郎はそう思うが、不思議なことに6番席を除いて話が絶える様子はない。

「あの、さん……客の要望ということで、一旦離れるのはどうでしょう?さすがに近すぎます」

 それでも規則と言うのなら諦める。駄目元ではあったが、は大きく頷いた。

「そ、それはいいですね、とてもいい案だと思います、そうします」

 椅子を離したにちくちくとした視線が降り注いだが、「お客様のご要望です!」の一言でなんとかその場は収まった。
 本来の目的を見失う、ここはそういう場所なのかもしれない。周りはぴたりと密着した男女ばかり。千寿郎はできるだけ前を向き、できるだけ視線を動かさないよう努めた。壁紙の縦線を数え気を紛らわせていた千寿郎はの方を盗み見る。動く口元は同じように縦線を数えているのか。それが五十になるとは意を決したように言った。

「あの、千寿郎さんがどうしてここに……
「古美術屋の御主人から聞きました」
「古美術屋……あ」
「常連らしいですね」

 足袋を買いに行こうと思わなければ。古美術屋の店主が恥じらって話してくれなければ。ずっと知らないままだった。他人の趣味を覗いてしまったのは申し訳なく思うが、聞かずにはいられなかった。聞いたはいいが、「両手に花、いや、片手に薔薇だな」と妙なことを言って思い馳せている様を目の当たりにすれば、自然と眉根が寄るのは致し方ない。「千寿郎さんも噂くらいご存知でしょう?」と店主は悪気ない顔で言う。
 ここはただの喫茶店ではない。いわゆる、『特殊喫茶』の部類であった。


さんは勇気がありますね。一人ですぐに決断なさる」
「わたしは向こう見ずなだけです」
「確かに」

 千寿郎が小さく笑みを見せると、強張っていたの頬がわずかに緩んだ。すると、リンと鈴が鳴る。

「すみません、延長料がかかるんです」
「なるほど。そういうことですか」

 千寿郎は時計を探したが、どこにも見当たらない。席について10分も経っただろうか。よくできた商売だ。

「おいくらですか?」
「コーヒーは、二十銭です」

 千寿郎はをじっと見る。うっと息を呑んだは「……五十銭です」と告げた。それを聞いた千寿郎は荷物を探る。そして彼女の姿を一瞥し、とりあえずもう10分の延長を申し出た。千寿郎は頭の中で素早くそろばんを弾く。コーヒー代、延長料金。それから靴と洋服。

さんはずっとここで働きたいですか?」
「な……なんのお話ですか?」
「今は嫌かどうかだけ答えてください」
「わたしは……自分で決めたことですし……あの、……できれば、他を探したいです。できればの話です。このお仕事、わたしには向いてないような気がして……
「そうですね、私もそう思います」
「えっ」
「では、もう一つ。住み込みでなければならない特別な理由があるのですか?この辺りなら我が家……煉獄家から通うこともできます。もっとじっくりお探しになられても良いのでは?」

 途端にの表情が困惑したものに変わった。

「いつまでもお世話になるわけにはいきませんから……。それに、お見合いも……
「わかりました」

 これくらいあれば足りるだろう。千寿郎は荷物からまとまった金額を取り出した。

「これを店主に渡してください」

 何食わぬ顔で千寿郎は店を出た。その手はしっかりとの手を引いている。は千寿郎を凝視し、必死に付いて歩いていた。

「さん……待ってください、千寿郎さんっ!」

 絞り出したようなの声に千寿郎は足を止める。

「千寿郎さん。これは、どういうことですか?」

 振り返った千寿郎ははっとする。は今にも泣き出しそうな顔をしてこちらを見上げていた。

「どうしてそこまでしてくださるんですか?こんなところ、誰かに見られたら大変です」
「どこの“誰か”なんて気にしません」
「千寿郎さんが気にならなくても……とにかく、いけません。離してください!」

 はなんとかして千寿郎から逃れようとしたが、千寿郎も譲れなかった。
 そうしていると「人さらい」と人聞きならない言葉が耳に入る。通行人が一人二人と足を止め、あれよあれよと人集りができた。は慌ててエプロンを脱ぎ、千寿郎は手を離す。幸いにもは走り出そうとはしなかった。厳密には履物のせいで走り出せなかったのかもしれない。

さん、こっちへ」
「うぁ、はいっ!」

 再び手を引き、駆けていく二人の背に新たな言葉が降りかかる。「駆け落ちかしら」と夫人の声。
 —— そう言えば、さんのご両親は駆け落ちと言っていたな。
 走りながら遠巻きに考える千寿郎の元で、少女は声を張り上げる。

「わっ、わたしたちは駆け落ちではありません!」






 脇道に逸れれば二人を見る者はほとんど居なくなっていた。
 が困惑しているのはもちろんだが、千寿郎も困惑していた。額に汗がにじみ、遅れて襲ってきた緊張が千寿郎を支配した。その一方で、は心配そうに眉を寄せる。

「千寿郎さん、あの大金はどうなさったんですか?」

 まさか、と。
 借金をしていると勘ぐっているのだ。

「あれは兄の蓄えです」
「杏寿郎様の?」
「昔から小遣いといってくださったんですけど、なかなか使い出さなかったものですから」
「だからって、……こんなことに使うものではないです」
「いえ、真っ当な使い道ですよ」
……気が狂れたんですか?」
「はい?」

 千寿郎は素っ頓狂な声を上げた。冗談と思えばは至極真面目な様子だ。

「あの店のお客さん、だんだん変になっていくから……

 ああ、と千寿郎は一人納得する。

「そんなつもりはありませんが……さんがそう見えるなら、そうかもしれません」
「いえ、……いつもどおりに見えます」
「それはよかった」

 真っ当だ。ああしなければいつまでも店の者が彼女を追ってくるに違いなかった。
 なぜならば—— 少なくとも、千寿郎には彼女が一番に際立って見えた。はっきりと確認できずとも、他の者も彼女を見ているような気がしたし、もしかすれば、あの店で一番の薔薇であったかもしれない。そんなことを思い浮かべてしまうのだ、彼女が言うように実のところは気が狂れた・・・・・のかもしれない。
 何が何でも彼女を連れ出さなければならないと思ったのだ。

「では、杏寿郎様ならそうしたから……ですか?」

 千寿郎はどきりとした。たしかに、兄、杏寿郎なら同じことをしただろう。しかし、

「それは違います」

 もし、兄であったなら。変わらず剣を教えていたかもしれない。急いで働かせることもなかった。彼女が残した封筒を開けもせず、目をそらすようにしまい込んでしまうことも。
 けれども、それは全て想像でしかない。
 
 —— なぜ。
 
 なぜ、兄はあんなことを言ったのか。
 彼女が思い違いをしているとも考えた。だが、半端な言葉など言いはしない人だ。煉獄杏寿郎はそういう人物であると、千寿郎は知っている。


「僕が、そうしたいと思ったから」

 ずっと、聞いてみたいと思っていた。
 彼女が煉獄家を訪れたあの時から。

さんがここまで兄を慕ってくださるのはなぜですか?」

 またいつか会えたなら。そう思うことと、行動することは別の話だ。初めて煉獄家を訪ねたの姿はごく普通の娘だった。
『十七になる年にうちに来るといい』
 今や真意を知ることができなくとも、それは偽りなき言葉。だからこそ、千寿郎は知らぬふりをすることができなかった。そうだと思っていた。

「それはその、……
「給金のためですか?」
「お金?……違います。給金のことは、知りませんでした」

 は静かな声で言った。

「わたしは……わたしは、忘れたくなかったんです」


 幻になってしまう。
 消えて無きものになってしまう。


「両親は、わたしの言うことを信じてくれませんでした。それで杏寿郎様は……熊が居たとおっしゃいました。杏寿郎様は確かに鬼を倒してくださったのに、熊だって……


 遡ること、八年。
 雪がちらつきそうなほどに冷えた夜。たしかに、鬼はいた。この世に存在してはならない、悪鬼。
 うまそうな童の匂い。
 しゃがれた声が少女の耳にまとわりついた。嗅いだこともない悪臭が鼻を突く。あっと漏れた小さな音は、吐息ともつかない。温かな腕の隙間から見えた奇妙な色の両腕。この世の者とは思えないものが視界の隅でごろりと転がる。やがてそれらは灰になって散っていった。

 日が昇ると、煉獄杏寿郎は様々なことをに話した。お礼に出したおにぎりを食べ、登校の時間に差し掛かると、彼は一緒に家を出た。山を下りながら、また話をした。


「両親にとっては絵空事のようでも、わたしは違う。……煉獄様の御宅に無事着いたとき、とてもほっとしました。もちろん思っていたのと違うこともあったけれど、それでも……あれは嘘じゃない。わたしが生きていられるのは、あの御方が、杏寿郎様が……

 今までこらえたものが一挙に溢れ、彼女の頬を濡らす。

「必ずもう一度……そう思っていたのに。きっとお会いできると……


 千寿郎は口をつぐんだ。
 在りし日。泣いている自分に兄がそのように言ったことは一度もなかった。
 千寿郎の指先がの頬に触れる。すくってもすくってもまた涙が溢れる。
 それでも、どうしても「泣かないでください」と言えない。それらは言葉になれない感情の粒。悔しさや悲しみ、歯がゆさ。いろいろなものが詰まっている。

さん。兄のことを、忘れないでいてくれてありがとう」

 今も想っている人がいた。鬼狩りを信じてくれた。兄が救った命がそこにあることを、千寿郎は素直に嬉しく思った。
 そして、ごく普通の十七の少女の本心を、ようやく聞けた気がした。





「やっぱり、見合いの話は断ることにします」

 はハンカチで頬を拭いながら、千寿郎を見上げた。

……断りの文言が決まったんですか?」
「はい。はっきりとした理由もありますので、何を言われても大丈夫です」
「それはよかった……んですか?」
「これでよかったんです」

 今まで唸っていた時間はなんだったのだろう。千寿郎は自身に呆れるばかりだった。
 写真ばかりを見つめてもどうにもならないはずだ。本当は、手ぬぐいも無くしたくはなかった。木蓋だって捨てられない。店で知る一面も、他にもたくさんのものを心の中に蔵めてきた。誰にも言わず、そっとしまい込もうとしていた。

 —— 一等のこだわりがないなんて、とんだ勘違いだ。

 哀れみ同情してほしいのではない。敬ってほしいのではない。ただ、忘れたくなかった。煉獄杏寿郎という男を、鬼狩りが存在したことを。哀しみにくれるのではなく、偲びたかった。

 そして、欲を言うのなら。

 ふとした時でいい、その一瞬を心から語らいたかった。
 懐かしむことは、知る者にしかできないこと。
 そしてまた、煉獄という名も、ただ没落していくのではない。この世のどこかで繋がれていくものがたしかにある。