筆先に溜まった墨汁がぽたりと落ちる。

『千寿郎君もお元気なようで何よりです。刀のことは刀鍛冶に頼むのが一番よいと思います。ところで、それはどなたのものですか。差し支えなければ教えて下さい。話が通るよう、俺から説明しておきます。(あの人は昔から融通が利かないけれど、…… ——


5.手 紙



 千寿郎は手紙の送り主に返事を出そうと試みた。しかしながら、なかなか言葉がまとまらない。先程から紙を駄目にするばかりで少しも筆が進まなかった。


 千寿郎が竈門炭治郎へ相談を持ちかけたのは先日のこと。喫茶店を出て、すぐに手紙を書いた。結局、その内容は簡素なものとし、刀の処分について考えていることを記した。そして、その返事が届いたのが昼。千寿郎がほっとしたのは束の間だった。刀のことなら数行で終わるのだが、邪念が入る。五文字書けば筆が迷い、十文字書けば紙にシミを作った。千寿郎は脇に置いた手紙へ視線を落とす。
 —— ああ、なんであんなことを言ってしまったんだ……
 会って間もない客人、しかも、自分より二つも下の少女に見合いの話をペラペラと話してしまった。『』と書く度にその羞恥がぶり返し、また振り出しに戻るのだ。

「兄上なら、……

 千寿郎は払うように頭を振った。
 いずれは婚姻を結ぶ相手にも、兄、杏寿郎のことを話さなければならない。
 一般の街娘に「鬼」や「鬼殺隊」だの話しても通じないことはわかっている。その点、藤の家紋の家の娘は事情を知るだけに話は早い。されども、それはそれでまた妙な気分だった。柱どころか鬼殺隊にもなれなかった自分が丁重にもてなされる。そのことがどうも慣れず、心苦しい。ごく普通の青年として扱ってほしい。その願いは煉獄の名の下ではまかり通らない。考えれば考えるほど自分がどうありたいか、不明瞭になっていく。

「どうしたらいいんだ……

 隙間風か。行燈の炎が揺れ、影が波打つ。そろそろ油が切れる頃合いだ。継ぎ足さなければ、と、千寿郎は腰を上げようとしたものの、根を生やしてしまったらしく動けなかった。ふと、一つ向こう側の襖へ耳を澄ます。はとっくに寝入っているらしく、物音一つしない。
 時刻は深夜を回っている。外は虫の音さえせず静寂が漂っていた。欠伸を噛み殺し、千寿郎は再び机に向かう。

 —— んっ。
 何かがコツンと額に触れた。手元を見ると、握っていたはずの筆は硯の池に沈んでいた。

「さすがに布団で寝ないとな……

 ひとりごちた千寿郎だったが、微睡の心地よさに誘われ、瞼が重く蓋をする。こくり、こくりと船を漕ぎ、やがてぼんやりとした光の中に落ちていく。



 千寿郎。
 千寿郎……だ。千寿郎 ——



 名を呼ぶ声が、頭の奥に響いている。千寿郎は問いかける。

 兄上。

 それが兄の声であるか確かめたかった。だが、わからない。あんなにも自分の名を呼んでくれた、強く優しい最愛の兄が。いや、何度も思い出そうとし、思い出した。
 だがその音が正しいものであるか、わからないのだ。


 —— さんが、兄上が御助けになられた、さんがいらしてます。北の山から会いに来てくださったんです、話を憶えてくださっていたんです。兄上、あの桜の手ぬぐいは憶えていますか?


 昔、予備の手ぬぐいを兄と買いに行った。五枚ほど買うつもりだった。季節の柄だと勧められ、五枚のはずが六枚になった。買いすぎではないかと言えば「これは来客用にしよう」兄はそう言った。うちは来客なんてほとんどない。なのにどうしてか、そう言って笑うのだ。


 兄上。もう少し話をさせてください。
 俺の話を聞いてください。
 もう少しだけ。


 けれども、その声は届かない。遥か遠くへ抜けていく。
 千寿郎が蘇った懐かしさに気づいたとき、頭上にあたたかなものが触れた。




「千寿郎」
「続きを、……
「続きは明日にしなさい。さすがに風邪を引く」

 千寿郎が顔を上げると、槇寿郎が肩を揺すっていた。水を飲みに起きたのか、寝間着に上着を引っ掛けている。開いた戸から夜の外気が流れ込み、思わず千寿郎は肩をさすった。

 時計を見やると、さほど時間は経っていなかった。が、残っていた油は底をつき、次の瞬間ぷつっと消えた。


 千寿郎は布団に潜り込み、もう一度あの夢を見ようと試みた。だが不思議なもので、思い通りにいかない。瞼を閉じるものの時間ばかりが過ぎていく。うとうとしては目が覚め、何度かそれを繰り返すうちに障子が明るみ、千寿郎は大きな欠伸を噛み殺す。






 いつぶりだろうか。そこに朝の冷えた空気はなく、湿度を帯びて温まったものが肺を潤した。

「千寿郎さん、おはようございます」

 千寿郎は十分に早く起きたはずだったが、すでにが炊事場に立っていた。小窓から暁色が見えた。まだ日は昇り切っていない。それを見ると心なし胸が疼いた。無意識に待ち遠しく思った日々に思い馳せる。


「おはようございます。今日は随分とお早いですね」

 千寿郎の言葉に、は小さく笑う。

「なんだか目が冴えてしまって。千寿郎さんこそ」
「私も早く目が覚めてしまいまして……

 じいと見るを、千寿郎は不思議に思う。

「ん、なにか?」
「千寿郎さん、袖に汚れが」
「あ、本当だ」

 うたた寝していた時に付けたのだろう。上着の袖口に墨汁が染みていた。
 すると、ジュッと鍋から湯が噴き出した。そばの笊には切り終えた人参や椎茸が盛られている。木蓋を取ろうとしたの側へ、千寿郎は駆け寄った。

「まってさん、その蓋は」
「熱っ」

 は耳たぶに指を寄せた。

「大丈夫ですか、今水を」
「あっ大丈夫です、大したことありません」
「いえ、見せてください」
「本当に、なんとも……

 赤くなっていないし、平気だ。はそう言って千寿郎に手のひらを見せる。言葉通り腫れている様子はない。それでも念のためと桶に水を張り、千寿郎はに促した。

「これで冷やしてください。言い忘れてましたがそっちの木蓋は湯気が漏れやすいんです。早く捨てておけば良かったですね、次からはこちらの新しい方を使うようにして、」
「捨てないでください」
「え」
「これは残しておく方が良い……と、思います」

 は濡らした布巾で蓋の持ち手を掴み、鍋に鰹節を入れる。それからくるくると舞う食材を神妙な面持ちで見ていた。




さん」
「はい」
「刀のことなんですけど、私が預かってもよろしいですか?」

 が持っていた刀は柄も鞘もちぐはぐだった。後から作ったと思われる木製の鞘から引き抜くと、茶色く錆びつき、元の刃金も分からない。古美術屋で二束三文と言われるのは仕方のないとしか言いようがない物だった。刀の価値がどれほどか知り得ないが、磨けば多少は値がつくのではないか。そうなれば彼女も気が楽になるだろう。千寿郎はそう思っていた。

「わたしは構いません、ですが……?」
「刀に詳しい方に見てもらおうと思いまして。もちろん資金は要りません。本当に少しだけ見てもらうだけですから」

 知り合いなんです。千寿郎の駄目押しに、は押し黙る。そして頭を下げた。

「何から何まで、ありがとうございます」
「これくらいなんてことないですよ。さてと……あ、米も仕込んでくださったんですね、では私は漬物を」

 千寿郎が漬物樽に手をやると、あっ、とがそれを遮った。

「今日は全てわたしにやらせてください」
「え、全部?」
「はい。ガスも使いこなしたいので。今日は早いですし、前のようにはなりません。千寿郎さんはゆっくりなさってください」

 顔が眠そうにしている。そう言っては自分の目の下を突いた。そう言われると途端に眠気が襲う。とはいえ、さすがに二度寝はできない。千寿郎はとっさに欠伸を飲み込んだ。

「えーと、では、私は洗濯を……
「手ぬぐいは洗いました」
「えっ、あ、ありがとうございます。じゃあ、ええと……

 炊事場をぐるりと見渡し、千寿郎は降参したように言った。

「この袖を洗おうかな……
「わかりました。あとは任せてください!」

 初日の慌て具合はなんだったのかと思う程にはテキパキと調理を進める。その様子からは危なっかしいところなど見当たらない。
 そして、その日の午後。「仕事が決まりました!」と喜ぶに千寿郎は胸をなでおろした。

 それからは早かった。試用期間と言って二日ほど家を空けたは、あっという間に荷物をまとめて出ていく。刀の件はこちらから連絡することでまとまった。実家の住所を書いていると封筒を手渡し、は去った。

「お世話になりました。本当にありがとうございました。……また来ます。お元気で」

 彼女が煉獄家を訪れて、数日間の出来事であった。





 翌朝、千寿郎は変わらず朝餉の準備をしていた。ふつふつと煮立つ鍋。古い木蓋からは変わらず湯気が漏れ出ている。
 食卓はまた父と二人になった。いつものように話すことはなく、黙々と食すのみ。箸置きに父のそれが揃うのを見計らい、千寿郎は口を開いた。

「父上、今日は刀鍛冶の方がお見えになります」
「刀鍛冶?」
さんから預かった物を見てもらうことにしました」
「ああ、あの長ものか」

 せめてもの償い。煉獄家を訪れてくれたお礼。千寿郎の言葉を父は黙って聞いていた。

「父上」

 一昨日、頭を撫でられたような気がした。あれは父だったのか。千寿郎は確かめるべきか考える。

……だいぶ待たせてしまいましたが、見合いの話は前向きに考えたいと思います」

 千寿郎は沢庵を頬張る。カリカリと咀嚼する音がこめかみに響く。が言うように、写真だけでは何もわかりはしない。いつまでも悩むのは良くないこと。変わりなく食事を続ける息子に、父は「そうか」と一言返す。傍から見ればそっけないように思うかもしれないが、千寿郎はそれで十分だった。

「新しい足袋を買いに行こうと思うのですが、父上は?」
「そうだな……いや、俺はいい。一足新品があったはずだ」
「わかりました。他は何か要りますか?」
「千寿郎」
「はい」
「あ……特にない」

 
 街へ出た千寿郎は呉服屋へ足を向ける。平日の昼間でも人の多さは変わらない。
 『仕事場は、千寿郎さんに連れて行っていただいた喫茶店と似ています』
 千寿郎は窓から店を覗くが、らしき姿は見当たらなかった。そもそも、喫茶店はこの街に両手でも足りないほどある。
 —— もう少し詳しく聞いておけばよかったな……


「あ、煉獄様」
 
 どうも、と軽く頭を下げるのは古美術店の店主だった。千寿郎が生まれるよりも以前から家同士の交流がある。彼女を紹介したのも知った仲であったからだ。

「あのー、あれからどうなりました……?」

 例の刀の件。店主は千寿郎の顔色を窺うように小声で言った。

「ご心配ありがとうございます。その話はなんとかなりそうです」
「ああ、それはよかった」

 数日間、煉獄家で彼女の面倒をみていたことを話すと、店主は安堵の息を漏らした。そして千寿郎に向け、申し訳無さそうな顔をする。

「あの後、もう少し高く値付けてあげれば良かったんじゃないかって悔やんでね」
「もし、錆が取れたらいくらか値がつくでしょうか?」
「はい、多少は……やっぱり、入用だったんですか?」

 店主の声が尻込みする。

「どういう意味です……?」



 それから千寿郎は踵を返す。新しい足袋のことはすっかり抜けていた。自宅に着き、廊下を駆ける足音は家中に木霊する。ただいまと言うなり戸棚を探り、箪笥の奥底をひっくり返す。そんな千寿郎を見て、槇寿郎は仰天した。

「な、何事だ?」
「詳しいことはあとで話します。父上、さんの刀は絶対に渡しておいてくださいね、小鉄君です」
「お、おいっ、千寿郎!」

 父の声が背を追ったが、千寿郎は振り向くそぶりも見せなかった。
 慌ただしく草履を引っ掛け、煉獄家の門を飛び出す。

 こんなときに、なぜ。

 走りながら、千寿郎は兄の爽快な笑い声が聞こえた気がした。