「では、明日また来てください。次、番号札、ハの34番の方」

 椅子から立ち上がったは荒波に揉まれるかのごとく出入り口を目指した。
 これは都会の洗礼。帝都だけ時の流れが一段と早いのか。

4.見合い



 今時の女中は洋食を作らなければ仕事にならない。ガスも使いこなさなければ話にならない。漬物を連なって出すようでは到底太刀打ちできるはずもない。千寿郎の美味しそうな卵焼きを超えることもできそうにない自分が何十人もの希望者から選出されるのは極めて厳しい。一応、と手渡された求人票を見るが宿付きは何やら怪しげで、「都会は良い人ばかりではないんです」と千寿郎の忠告がを踏み止まらせる。

 間借りしている部屋代、食事代。そして帰郷資金。頭の中でぷかぷか浮かぶ数字たち。

「はぁ……

 外を見たは眼が眩んだ。暗転の後の日差しは一段と明るく映り、目に染みる。
 それが見覚えのあるものに見え、は一瞬、動きを奪われる。


『わたしも鬼殺隊に入りたいです!』


 飛びつくように出た言葉を笑いもせず受け止めたのは、あの人だったから――


『そうか!ならば十七になる年にうちに来るといい!』


 光に満ちたあの眼差しが、その明るい声が。一夜の恐怖と漆黒を全て吹き飛ばした。
 都会に憧れる娘、ひとときの憧れと見たのかもしれない。本当に鬼狩りになりたいと思ったのか自身もわからないところを、煉獄杏寿郎という男は問うことはしなかった。
 他にもたくさんのことを話した気がするし、ほんの僅かであった気もする。あんなにも輝かしく思ったことも、一分一秒と針が進むたび、思考の及ばぬ場所へ追いやられていく。日々に削がれ残った言葉は、にとって唯一の目標だった。

 全ては自分で蒔いた種。
 けれども、松明を持たずひたすら野山を駆け巡っているようでもあった。



「もしかして、ずっと待っていらしたんですか?」

 が出入り口を出ると、人波の隙間に覗く髪色に目が行った。「いえ、所用を済ませてきました」と千寿郎は視線を泳がせる。その手には紙の包みが握られていた。印字は文具屋のものだ。

「何か良い話は聞けましたか?」
「明日また来るようにとのことでした」
「そうですか。では、帰ったら夕餉の支度をしましょう」
「はい」
さんは何が食べたいですか?」
「そんな、わたしは残り物で十分です」
「う〜ん……いえね、どうも二人だけでは同じようなものばかりで。せっかくなので変わったものをと思いまして」

 不味いことはないが特別に美味いこともない。父、槇寿郎は何を出しても文句を言わない。新鮮味がないのだと千寿郎は言う。

「料理本をご覧になるのはいかがですか?」
「見ることには見るんです。ですが、どれもぱっとしないと言うか」

 何がいいか、と千寿郎は呟く。それを見ては口を衝いた。

「昔はどうされていたんですか?」
「んー、そうですね……

 千寿郎は遠くを見つめた。その先は山陰へと向いている。

「あれはさんが下りた山ですか?」
「いえ、わたしは左の山です。……たぶん」

 は千寿郎の方へ視線を移し、そのまま口を閉ざした。良くないことだと思いながら、どうしても口に出してしまう。にとって恩人で憧れ。彼にとっては肉親、兄。言葉に詰まった千寿郎を見て、も喉の奥がぐっと詰まるようだった。

……ごめんなさい」

 はまともに顔を向けることもできなくなった。千寿郎がどのように思っているのか。嫌な気分にさせたかもしれない。だか、「正直、あまり覚えてないんですよ」と言うそれは、変わらず穏やかなものだった。

「何でも召し上がる方だったので、途中から本を見て作ったんです。それで、順々に作るものだから次の料理を言い当てられてしまいましてね」
「そうですか……
「なので、私も一捻りして一つ飛ばしで回していったわけです」
「そうなんですね」
「また次もそのまた次も言い当てられて、最後は新しく本を買ったんです」
「それで、……?」

 千寿郎はくすくす笑う。

「そろそろおわかりでしょう?堂々巡りのはじまりです」

 一巡したらあっという間に覚えられてしまう。もちろん、料理の香りもあっただろうけれど、と千寿郎は懐かしそうに語る。

「そういうことですので、何も気にしないでください」

 千寿郎は目尻を下げる。

「あなたは何も悪くないのだから」

 柔らかく、青年にしては可愛らしい笑み。裏表のない顔。それに混じり、瞳に映る信念が見えた。ゆらゆらと燃える焔がこちらに及ぶようだった。
 錯覚する。
 卒倒して目を覚ましたときと同じく、は一段と高鳴る心臓にどう応えるべきか考える。

さん?」

「あ、その、わたしから夕餉についてひとつ提案があるのですが」






 思えばこのような好青年が独り身であること自体、不思議なことだった。

 翌朝、ハタキで掃除をしていたは大雑把に包まれた存在に気づく。殺風景な部屋にぽつんと残された花模様の風呂敷は淡い想いが覗いていた。

「それ、ご覧になりました?」
「あっ」

 いつの間にか、千寿郎が廊下からこちらを覗き込んでいた。

「いえ、見てません!わたし、みっ、見てないです!」

 大方の予想は付いた。だが、見てはいない。本当には見ていないのだ。大げさに顔を横に振ったために誤解を招いたのかもしれない。「父が受け取ってきたもので……」と目の前の青年は照れたように眉を下げた。
 これ以上を言うのはよしておこう。そう決めただったが、狼狽した青年の口は堰を切ったように話し出す。

「実は、この件は断ろうと思っているんです。あっ、気に入らないとかそういうことではないんですよ?私にはもったいないと思うくらいで、すごく。いや、本当に素敵な御方で、御方なんですけど、……

 千寿郎は両手をすり合わせ、「どうしたものでしょうね」と呟く。言葉や表情、全身で困惑を顕にしていた。
 しゃしゃり出るのはどうかと思いはする。しかし、目の前で世話になった恩人が困っているのに知らぬふりもできない。は少し間をおいた後、口を開いた。

「お返事はいつまででしょう?」
「それが、」

 そこでコンコンと襖の縁を叩く音がする。襖の側で槇寿郎が遠慮気味に顔を出す。

「千寿郎、例の件だが来週までにとのことだが……
「わ、わかりました」

 すっと閉じた襖を見て、千寿郎は唸る。今日は何曜日。あと四日も、あと四日しかない。

……千寿郎さんは、家庭に興味がないのですか?」
「そんなことはないですよ、私もいい歳ですし。でも……

 断り文句ばかりが浮かぶのだ。そう言って、千寿郎は困り果てた顔をする。その気はあるのにあと一歩が及ばないということらしい。
 ならば、

「思い切って、一度お会いしてみてはいかがですか?お話したら気分も変わるかもしれません」

 写真は何も言わない。会えば断る原因もわかるかもしれない。そのまま話が進んだら万々歳だ。の言葉に千寿郎も思うところもあったらしく、「……そうですね」と頷いた。

「わたしなんて一度お会いしたきりさっぱりでした」
さん、お見合いなさったんですか」
「はい、昨年の冬に。でも、田舎娘は好みではなかったようです」
「そんな理由で?……あ、私が言えた義理ではないですね」
「いえ、立派な理由だと思います」


 が剣士になりたいと言った時、相手の反応は奇妙奇天烈と言わんばかりだった。「私は都会の妻がほしいです」と言ったきり、何も言わなくなってしまった。断る理由にはこれ以上にない言葉だった。は落ち込むどころか心の中で拳を上げた。けれども、両親はそうもいかなかった。非常に残念がった。女学校という武器もさほど意味がないと知った落胆もあっただろうが、『十七になる年に山を出る』という娘の足止めを効かせたかったのもあるだろう。

 。絵空事もほどほどにしておきなさい。

 そのように言うのは、裏山の林から聞こえた物音を熊と信じているからだ。
 当時、は訴えた。それはもう家中に声が響くほどに訴えた。しかし、寝ぼけているとあしらわれ、いくら「鬼」と言っても信じてもらえなかった。そんな両親を見て、はますます躍起になった。やがて半べそになったに鬼狩りは密かに告げた。「鬼のために親子喧嘩をするのは良くない」とを宥める。わたしは鬼のために言っているのではないんです。そう言いたい気持ちはあったが、ひっくひっくとシャクリがつき、てんで言葉にならなかった。そうしていると、その鬼狩りは目線を合わせて言う。

『君の両親は見ていないのだから仕方がない。だが、俺と君が同じものを見たのは本当だ!それだけでは駄目だろうか?』

 明るい顔を見て、は駄目とは言えなかった。そのため、の両親は命の恩人であることを知っていても、猟銃一本でどうにかなるような相手ではなかったことを知らない。


 みんないなくなった。
 隣の家の子も、麓の家の子も。
 大きな引っ掻き傷は熊だ。
 心の臓を抉った傷は猪の牙が突いたのだ。


 そんなこともあって、が山を下りる時もひと悶着した。資金を工面するのにも根気が要った。夢見るお年頃にしては少々遅すぎる旅路。許しを得たのは当てがあったことも大きかった。また、両親が密かな期待を抱いていたことも。


 は千寿郎の顔が少し晴れたのを見てほっとする。この人柄だ、その気になればあっという間に話は進むだろう。そして、卵焼き。あれほどの料理を振るうのは板前くらいではないかとは思う。


 どうしようもない事実と優しさ。随分と甘えていたが、千寿郎がそのような立場にあるなら話は違う。

 そもそも、繋がりなどなかった。あの時で終わっていたのだ。

「大丈夫です、きっと上手くいきます!」

 は大きな声で断言した。
 明後日までに仕事を見つけ、早くこの家の平穏を戻さなければならない。
 本物の厄介者になる前に。