朝の食卓。槇寿郎は茶碗を片手に躊躇った。小皿に箸を伸ばし、それを口に運ぶか否か考えていた。

 蛇腹に連なった沢庵の存在。それに逸早く気づいたのは千寿郎だった。知らずに盛り付けるを見て、こっそりと自分の皿に替えた―― はずが、がまたこっそりと替えていた。より大きな物を家主に食していただきたい。そのの思いはわからなくもない。自分が一口で頬張ってしまえば事なきを得るだろうと考えたのが仇となった。千寿郎は思わず梅干しにも視線を配る。もちろん、それらは無事だ。今一度父を見ると、無言でぱくりと一口で頬張る姿があった。かなりの大口である。それを千寿郎はハラハラとした心地で見ていた。
 いっそのこと、自分が切ったと言ってしまうか。
 ただ、日頃を思うとこんなにも無意味な嘘はないと千寿郎は考え直す。
 こっそりと盛らず、こっそりと切るべきだったのかもしれない。


3.春疾風



「千寿郎」
「はい」
「包丁を見たほうが良さそうだ、刃こぼれしているかもしれない」

 槇寿郎は何事もなかったように椀を取る。軒先から聞こえる雀の親子の語らいは、この食卓が平穏であることを認めているようなものだった。
 すべての料理が無事であることが吉日。
 怒号が響かないことが吉日。
 昔であれば、どんよりとした一日を迎えることになっていただろう。それを思うと今の父の変わりようは、千寿郎には三六五日全てが吉日であるように思えた。

 しかしながら、失態に気づいていたのは千寿郎だけではなかった。皆、一様に気づいていた。「すみません……」と小さな謝罪の言葉は、静寂を保つ朝餉の席ではよく通った。食後、元気を無くした彼女を励まそうと、千寿郎はあの手この手で巧みに言葉を操った。

「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ、ご覧になられたでしょう?父上も気にしておられなかった」

 杏寿郎であれば「気にするな!」と言って笑って終わることだろう。が、いくら思い浮かべても、千寿郎はどうにもそれができなかった。わははっと腹の底から声を出したつもりが、頬がひくつくばかり。声になり損なった空気だけがこぼれ、

「ま……まあ、仕方ないですよ。朝ですし」

 苦し紛れな言い訳は、彼女の心情を逆撫でしているようなものだと気づくのも遅かった。
 千寿郎さんが用意した味噌汁の具材はきちんと切れていた。卵焼きも焦げていない。それに比べ、自分が焼いたししゃもはいりこのようにパサパサだった。と、の表情は沈みゆく船のよう。その姿を見ていると、千寿郎の励ましの言葉も次第に底を付く。

さんは初めてガスを使われたわけで、私の場合は少々訳ありといいますか……
「訳あり、ですか?」
「この家は長いこと女手がありませんから」

 仕方のないことだった、という千寿郎の言い分を、は納得するしかないようだった。それに、彼女の料理自体は悪いようには見えない。千寿郎は考えた末に、彼女に一つ案を出す。

「そもそも勝手が違いますし、慣れていないだけですよ。私がコツを教えましょう」

 千寿郎が微笑むと、ようやくに笑顔が戻った。ほっとした。
 彼女の心配がどこへ向いているのか、千寿郎もわかっていた。女性の仕事といえばほとんど限られている。あの様では三日持つとわからない。職を探すのに難儀することは間違いようのないことだ。
 ただ、千寿郎の不安はあまり当たりはしなかった。取り越し苦労であると知るのはこの後のこと。

「そうそう、お上手ですよ」

 何ということはない。まな板の上で均等に切り揃えられたそれらに、千寿郎は声を弾ませる。今朝のアレはなんだったのか、と千寿郎が思っているとは言った。

「もう少し考えて起きるべきでした。焦ってはいけませんね」

 もう10分早く起きていればよかった。と、彼女は包丁を見た。刃こぼれなく研ぎ上がっている。

「気にしなくとも大丈夫です。我が家はそんなに急いてないですから」
「でも……家政が悪いのは本当です」

 ザクリ。また、ザクリ。話を断ち切るように、は淡々と人参を切っていく。千寿郎は無言でそれを見ていたが、やはり特別に悪いようには見えなかった。何を持って悪とし、良きとするのか。

「僕はそうは思えないけどな……

 青年のこぼした声は春風が絡め取る。ガタガタと勝手口を賑わせ、いたずらっ子のように庭先を駆け回った。

「あっ、洗濯物が!」

 の叫びで千寿郎は慌てて外へ駆け出した。




 ひい、ふう、みい。

「手ぬぐいが一枚持っていかれた……

 しかも来客用として取っておいたもの、彼女に用意した新品を。しっかり止めておいたはずだが、風の力が勝ったようだ。

「手ぬぐいだけで良かったです、肌着が飛んでいったら大惨事ですよ」

 例えば、よその御宅の庭先に。もしくは、軒先や瓦屋根へ。彼女が言うようにひらひらと絡んでいる様を見るのは実に滑稽だろう。

「言えてます。それにしてもどこまで……あ、あった」

 千寿郎の視線の先で、ひらひらと手ぬぐいがはためいていた。庭先の樹木へ絡み付いていた。一枚の綿生地が枝木に絡み、ちょっとやそっとでは取れそうにない。このまま捨て置いていれば、また空を舞うだろう。

「わたし、取ってきます!」

 木登りならできますから、と構えるを千寿郎は慌てて止めた。

「危ないですよ、脚立があるので絶対に登らないでください。いざとなれば、……私が登るので大丈夫です」

 と、口走った千寿郎は早々に後悔した。はたして今までそんなことをしたことはあっただろうか?木刀はがむしゃらに振るってきたが、木登りは……記憶にない。脚立を引っ張り出し、千寿郎はじわりと汗をかく。
 千寿郎は枝木を見上げた。の見立て通り、あと少しというところで届かない。

「大丈夫でしょうか?やっぱり、わたしが登りましょうか?」
「大丈夫です、これぐらいどうにか……
「では、なにか引っ掛けるものを、……庭箒はどうでしょう?」
「ああ、それはいいですね」

 取ってきますね、とはさっさと背を向ける。支えのない脚立の上で、千寿郎は強風が吹かないことを祈るばかりだった。ややあって戻ったは熊手を手に戻ってきた。

「こっちのほうが良いかと思いました」
「ありがとうございます。あの、さん、すみませんが脚立を握っていてくださると助かります……
「あっ、すみません!」

 右だ、左だ。上だ、下だ。くるくると回す。
 千寿郎とは熊手の先を一心に見た。

「千寿郎さん、がんばってください!もうちょっとです!」

「あっ、惜しい!」

 手ぬぐいは思いの外しぶとかった。自由を求めるかのごとく、枝にへばりつている。熊手に絡まらないのなら枝を突いてみるか。千寿郎は思い立って樹木を揺すった。

「よしっ!」
 
 千寿郎の声と同じくして、手ぬぐいが舞い落ちる。は受けとろうと左へ右へと小走りだ。ここでまた風が吹いたらたまらない。千寿郎は急いで脚立を降りる。

「千寿郎さん、取れましたよ!取れました!」

 は手ぬぐいをはためかせ、よかったですと笑う。

「なんだか花が舞ったようでしたね」

 ほら、と春風に踊る手ぬぐいは、一足早く、桜の花が舞い降りたように見えた。




 一騒動終えた千寿郎とは本日も街へ繰り出した。目的は職業紹介所。仕事を斡旋してもらえると聞きつけ、訪れたわけである。建物の前には職を求め、地方よりやってきた人々で溢れていた。『受付はこちら』という案内札の先にも列ができている。受付をするにも札が要るらしく、案内係から番号を貰うにも時間を要した。列に並び、木札を持ったが現れたのは15分ほど経ってからだった。その先も待っていようとした千寿郎をがやんわりと制す。

「ありがとうございます。ここからは一人でも大丈夫です。千寿郎さんはゆっくりお茶でも飲んで、先にお帰りになられてください」

 長くなりそうだから、とは人の隙間から見える受付に視線を向ける。そして、千寿郎が答えるより先に館内へと消えていく。しばらく外で様子を見ていたが、千寿郎は仕方なく喫茶店へ足を向けた。


 コーヒーを目の前に考えるのはが手にしている刀だった。千寿郎にはあれが“何の刀”であるか判断できかねた。六年前と言えば既に大正、廃刀令が出た後だ。が見たのは杏寿郎の日輪刀が初めてであり、最後であっただろう。それを考えると、千寿郎は口にするのを憚れた。もし、アレが人を殺めたものだとしたら……。幼気な少女を更に窮地に追い込んでいるようで、口が裂けても言えなかった。せめて値がつけば売り払って事なきを得ただろうが、後の祭りである。煉獄家には日輪刀こそあるが、日本刀の類は無縁だ。預かるにも悩んだ。
 刀で思い当たるのは一つしか無い。そしてそれに通じているのは千寿郎自身でもなく、やはりあの人物へ手紙を寄越すべきだろうと考える。
 それにしても彼女はどこで刀を買ったのか。真っ当な店で買えるはずがない。何にしても、そのままというわけにはいくまい。
 問題は書き出しだ。どのように書くべきか。彼女の説明はもちろんだが、始まりは兄の言葉を記すことか。
 ―― 長いふみになりそうだ……
 湯気のたっていたコーヒーはすっかりぬるくなっていく。
 千寿郎のため息は、蓄音機から流れるクラシックな音色に混ざり消えていく。

「おかわりはいかがですか?」
「あ、お願いします」

 給仕がカップにコーヒーを注ぐ様を見て、千寿郎は頭を抱え込んだ。すっかり忘れていたが、そろそろ見合いの返事を出さなければならない。刀の件もあるがこちらもなかなかの難題であった。いっそのこと、このことも手紙に……と、千寿郎は頭を振った。さすがにそれはできない。顔を上げると奥のテーブル席に座る女性が会釈をしたような気がした。それが写真の女性とそっくりに見えたもので、千寿郎は本格的に頭痛を催した。水のようにぐっと飲み干し、千寿郎は席を立つ。

「すみません、会計をお願いします……

 背後の撫でるような視線に知らぬふりをすると、口の中がじんと痺れた。
 やはり手紙を出そう。
 これは逃げ出しているのではない。早急に手紙を出さなければいけないのだから。
 千寿郎は自身に言い聞かせ、扉を閉めるとささと人混みに紛れたのだった。