朝露で濡れた土の香り。瞼の裏がやんわりと明るむ。ぼやけた景色は陽の色をしている。
 ああ、よかった。
 少女の囁きは、夢と現の狭間にあった。

「お目覚めになられましたか。ご気分はいかがですか?」

 青年は湿らせた手拭いを手にして問いかける。
 狭間から抜け出し、少女が布団を跳ね除けるのは早かった。

「わたし、……すみません!」





 明日には良くなる。医者の言葉通り、の熱は明け方には引いていた。しかし、手持ちがほとんど無いという彼女をそのまま送り出すわけにはいかない。その原因がこちらにあるとわかれば尚更だ。
 千寿郎は長ものを見て頭を下げる。

「その件はすみません、なんと申したら良いか……
「やめてください、謝るのはわたしの方です!他所様の御宅で寝込むなんて……これはわたしが勝手に必要だと思って、勝手に買ったものですので、千寿郎様が気にすることではありません」
「しかしですね」

 昔の話、と言ったところで全て帳消しとはならない。千寿郎は援助を申し出たが、はその手の貸し借りはしないと頑なに受け取ろうとしない。

「それに、ご覧の通りわたしは健康体ですので、働き口が見つかれば問題ありません。昨日は驚きすぎただけで……今は元気です!」

 と、拳を握り、腕を掲げてみせる。

「そうは言っても、すぐには無理でしょう」
「なんとかします!」
「そのなんとかが、……ご覧の通り我が家は空き部屋がありますので、せめて仕事が見つかるまではここで過ごされてはいかがですか?」

 田舎に帰る間にまた何かあるとも限らない。それだけは阻止せねばならない。
 これは自分の役目である。千寿郎はそう思えてならなかった。渋っていたも現状に無理があると思っていたのだろう。

……本当に、よろしいのですか?」
「はい。きっと兄もそうすると思います」
「すみません、お恥ずかしいです。恩に着ます……

 槇寿郎の許しを得た千寿郎は、しばらくの間、彼女を屋敷に住まわせることを決めたのだった。

2.ライスカレー



「それから、さん。“千寿郎様”というのは控えていただけると……

 様と呼ばれるのには慣れていない。どうにも鼓膜がくすぐったく、耐えられない。千寿郎が懇願にも近い思いで告げると、

「では、わたしのことも“さん”はやめてください。なんだか落ち着きません。呼び捨てで結構です」
「そんなことできませんよ」
「わたしは千寿郎様とお呼びします」
「それは、困ります」
「わたしも困ります」

 頑として譲らないつもりか、はまったく動じる様子がない。一室でそのまま向き合っていたが、折れたのは千寿郎だった。

……わかりました、さん」

 間借りするからにはタダでは住めないと、彼女は自ら家事を担うと決め込んだ。炊事場にやってきたは眉をしかめ、

「千寿郎さん。こ……これは、なんですか?」

 竈門があった場所にドンっと存在する鉄枠が珍妙な品だと見ている。

焜炉コンロです。昔は竈門だったんですけど、最近この辺りもガスが通ったので。便利なものですね」
「これが噂に聞く……もっと大きなものだと思ってました」

 都会だ。文明の利器だ。は大層驚いたようだった。訊けば彼女の家はかなり山深い場所にあると言う。当然ガスは通って居らず、わざわざ運び入れるような者もいない。昔ながらの薪と炭が普通だと言った。


「わたしは、猪か熊が来たと思ったんです」

 焜炉の摘みをつつきながら、は呟く。彼女が初めて鬼を見た夜は、雪解けの残る春先のことだった。ちょうどこの時期と近しい。

「寒の戻り。あまりに寒いもので、なかなか寝付けなくて。お手洗いは外にあったもので、用を済ませたはいいんですけど……そこからは、あまり覚えておりません。気づいたら、杏寿郎様の腕に抱かれておりました」
「そうだったんですか……
「それで、わたしも付いていきたいと申しましたら、断られてしまいました」
「え、でも」
「はい。それでお話した通り参じたわけです。千寿郎さん、わたしにもガスの使い方を教えてください」
「あ、ガスの元栓は……

 マッチの火が赤く灯る。ぼうっと丸く広がった炎を見ては後退った。そして前に近寄り、また、しげしげと見る。

「これで火がつくなんて……しかも、青い。都会ってすごい」
「ここはそこまで都会じゃないですよ」
「いえいえ、こんなに大きなお屋敷がたくさんあるんですよ、十分に都会です」
……さんはどこを通って来たんですか?」
「北です。北の山から居りて参りました。なので、わたしにとっては煉獄様の御宅と昨日伺った古美術屋が一番の都会です!」

 きらきらとした瞳に息が詰まる。東京はここより東が栄えている。それを知ったら、彼女はどんな顔をするのだろうか。

「墓参りの帰りに寄りたいところがあるのですが、いいですか?」




 先日よりも一層華やかとなった木々は、沈んでいた彼女に晴れ間を差す。

「わぁ……ここは杏の花が特別きれいですね」

 千寿郎は頭をコツンと小突かれた気分だった。くすくすと笑われてはいないだろうか。墓石に目を合わせられない。

さんは花にお詳しいのですか?」
「いいえ、人並みだと思います」
「ん、そうですか」
「どうかしました?」
「あ……私はずっと花梅と思っていたものですから。ほら、杏は実がなるでしょう?」

 実がなれば早く気づいただろう。千寿郎の知る限り、この樹が実った様を見た記憶がない。

「こんなにも花が咲いたらなかなか実はつかないと思います」
「実がつかない?」
「杏の木は欲張りできないと聞きました。この樹は観賞用のようですね」

 花か実か。決めるものだとは言う。決まった季節に剪定をする必要があるのだと。
 そんなものか、と千寿郎は樹木を眺める。

 杏寿郎の訃報や鬼舞辻無惨の抹殺はそれぞれ鎹鴉を通じて伝えられたはずだった。しかし藤の家の者や鬼殺隊と関わりのある者だけにとどまっていた。さすがに個人的なところまで及びはしないということだ。
 家を出たときはこんなはずじゃなかっただろう。
 時代の波に一足も二足も遅れてしまった彼女に、この時、千寿郎は同情にも似た思いを抱いていた。

「また、来ますね。……千寿郎さん、ご用事というのは?」
「行きましょうか」




 電車に揺られていると、の表情が徐々に固くなっていく。車窓の景色に釘付けとなっているのか、真正面を向いたままびくともしない。彼女が調子を取り戻したのは、地べたに足を着け少し経ってからだ。

「初めて乗りました」
「ええと……、山からどのようにして?」
「徒歩です。途中、人力車で相乗りさせていただきました」
「汽車を使わなかったんですか?」

 自動車は高価だが、北部から鉄道は通っている。東京駅へ向かってほぼ直線に伸びたそれに乗ればあっという間に市街地だ。

「刀を買った後だったものですから……

 そうだった。千寿郎は視線を泳がせたのち、「そうでしたね」と一言呟いたのだった。世間の感覚とさほどズレはないと自負していた千寿郎だったが、彼女と話していると違いについて実感せざるをえなかった。
 —— 山なら、あの方がお詳しいだろうな。
 千寿郎は額に痣のある炭焼の青年を思い浮かべる。兄のようで、友のよう。鬼殺隊を目指していた彼女だ、隊士のことも知りたいのではないか。彼女のことを手紙に書いてみようか。千寿郎は隣を見やる。

……

 千寿郎は素早く視線を巡らせる。どこに行ってしまったのか。人に紛れた彼女を探し出すのは一苦労。やっとのことで見つけた千寿郎は脇目も振らず走り出した。

「荻本屋さん、ですか?」
「ええ。ウチは住み込み、衣食住しっかり保証するよ。そのくらいならあっという間に終いさ」
「わたし、田舎者ですけどいいんですか?」
「もちろんだとも」
「わぁ、嬉しいです!」

「なら、行こうかね」
「え、あっ、すみません、その前にわたし」

 背を押される彼女を見て、千寿郎は人目もはばからず声を上げた。

「ちょ、ちがっ、その娘は違います!」





 うまい話には裏がある。都会はいい人ばかりでもない。良い話には乗ってはダメだ。千寿郎はしつこいほどに言って聞かせる。

「では、荻本屋さんはお食事処ではないんですか?」

 千寿郎は目眩がした。『そば・うどん』『日替わり定食屋』そのような感覚で彼女は頷こうとしていたのだから恐れ入る。

「違うよ、あれは……この話はあとにしよう」

 隣の客と目が合い、千寿郎は慌てて話を逸らした。ここで話す内容ではないし、彼女にそれを告げるにも勇気が必要だった。

さんは何がいいですか?」

 刀の件はどうにもできなかったが、せめてこれくらいはさせてほしい。その思いで立ち寄った喫茶店。千寿郎が広げた《御品書メニュー》に、の表情ははわかりやすく華やいだ。

「わたし、ライスカレーがいいです」
「甘味もありますし、遠慮しないでいいんですよ?」
「いえ、そうではないんです、お腹が空いてしまって」
「そうですか。まあ、たしかに……

 時刻は昼を過ぎている。甘味はまた後日でもいいかもしれない。千寿郎は手の飽きそうな給仕に向かって手を上げた。

「すみません、ライスカレーを2つお願いします」

 料理が運ばれる間、の視線は度々給仕へと向いた。黒い襟付きのワンピース、フリルの付いた白いエプロン。履物は黒いパンプス。髪の毛もオイルでつややかにまとめられ、人形のようだとは言う。

「都会の方は本当にお召し物が違いますね。わたし、雑誌の中の話だと思ってました」

 山の中で育つという心境はやはり千寿郎には想像するしかない。街へ来る前の彼女が過ごしてきた時間も環境もほとんど知らない。訊いてはいけないだろう。なんとなくそう思っていたが、意外にも彼女の方から話しだす。

「わたしが通っていた学校はあのような洒落た方はほとんどいなかったので」
「そういえばさんは?」
「卒業したばかりです。今時は学校を出ないと嫁の貰い手がないからと。あっ、わたしの両親は駆け落ちなんです。後先考えないのは両親に似たのかもしれません」
「そんなことは、」
「一度……文を、手紙を出そうとも考えたんです。でも手紙は嘘も真も書けるので、会ったほうが早いかと思いまして」

 の口ぶりに千寿郎は押し黙った。彼女はずっと信じていたのだ。そう思うと喉が詰まってどうしようもなかった。

「おまたせしました、ライスカレーです」

 慣れた手つきで給仕がテーブルに並べる。目の前の皿を見て、千寿郎は頭を抱えた。

「あれ、大盛りでした?」
「いえ……まあ、よくあることなので気にしないでください」
「どういうことですか?」
「う~ん、おそらくですが、」

 街へ出るようになって、時々ある。最近はもっぱら増えた。大盛りのライスカレーを目の前に、千寿郎には杏寿郎の姿が浮かんでいた。
 
「兄と間違われたのでしょう」
「なるほど、わたしも間違えてしまったのでわかります。本当によく似ていらっしゃる」

 近頃、杏寿郎とよく似ている。そう言われることが増えた。千寿郎自身はそうでもないと思うが、傍から見れば違うようだ。先日の天丼特盛りよりは、と千寿郎はスプーンを手にとる。すると、不意にが「すみません」と声を上げた。素早く給仕がやってくる。

「こちらの方は弟さんです。なので、次は普通盛りでお願いします」
「あ、……すみません!交換いたします」

 するりと伸びた手をが遮る。

「いえ、本日はいただきます。ありがとうございます」

 と、大盛りの皿を取ろうとしたを千寿郎が制す。

「大丈夫です。これくらいは完食できますから」
「すみません……わたし、余計なことを」
「いいえ、正直助かりました。次は安心して待っていられますから」

 千寿郎はくすりと笑みをこぼす。

「さ、いただきますか」
「はい」

 はスプーンを手に、それを頬張る。そしてみるみる頬を赤くした。

「か、辛い!」
「もしかして、カレーも初めてですか?」
「は、はぃ」
……よく、大盛りを食べようと思いましたね」
「言ったのはわたしですから」

 袖をたくり寄せ、千寿郎も大きな口で頬張った。それがまあ、辛い。この店のカレーは香辛料が強めのようだ。辛い辛いとはグラスに注がれた水に何度も手を付けた。

……杏寿郎様も、これを召し上がられたんですね」
「そうですね、汗だくになって召し上がったんじゃないかな」

 幼い頃はよく真似をした。
 どんな感じだったか?
 普段は気にしないことが、何故か思い出される。

「うまい、うまい。……

 こんな感じか。
 千寿郎が記憶の声を辿っていると、は手を止め、千寿郎を見ていた。

「あ、兄がよく言っていたもので」

 彼女には奇妙に見えたことだろう。一気に汗が吹き出るような熱が、千寿郎の頬を覆う。

「では、わたしも……うまい!」

 すかっとしますね、とは微笑んだ。千寿郎はスプーンを見て、再びそれを頬張る。
 やはりこのカレーは辛い。口の中がヒリヒリとする。が、喉元をすぎればまた次を欲す。辛い。暑い。けれども、懐かしく、あたたかい。

「うぁ、やっぱり辛いです……
「ははっ、あまり無理はしないほうがいいですよ」

 は目を見張る。
 何かを言いかけたように見えたそれはグラスに触れ、ごくりと喉を通り千寿郎の目の前で消えていった。