今まで気にもしなかったことが、ある時猛烈な違和感を連れてくることがある。例えば、高校から愛用している毛糸の手袋。昨日までなんとも思わなかったそれが、最寄駅まであと数分というところで突然役目を終えたように見えた。



「今日は冷えるな!」

 待ち合わせの場所へ着いた俺はほっと胸を撫で下ろす。運動不足かもしれない。久しぶりに走ったためか、どくどくと波打つ心臓が騒がしい。

「君ひとりか?」
「うん。そろそろみんなも来ると思うけど……あ。今、向かってるって」

 ほんの僅かな時間がやけに長く感じられた。放っておくと彼女のことをまじまじと見てしまいそうで、無理矢理にでも前を向く。すると大きく手を挙げる男に目が留まった。

 クリスマスは家族と過ごすもの。ほんの数年前までそれを当然のことだと思っていた。高校時代もそういうものだと思っていたし、そんな俺を受け入れる友人もいた。だが、大学はそうでもないようだ。実家住まいの俺は少数派となり、わざわざクリスマスに合わせ帰省する者もそういない。他はどうだか知らないが、少なくとも俺の周りはそうだった。なので一人暮らしの友人がクリスマスマーケットに行こうと誘ってきたのはごく自然なことだった。あれは数日前、三時間目の授業の合間の話だ。

「煉獄、アレ行こうぜ! 駅前のあー、えー……」
「もしかして、クリスマスマーケットのことか?」

 彼はニヤリと、そして締まりのない顔をする。

「ゼミの女子も誘うとして、俺も声かけるからさ、煉獄も頼むな?」
「俺が?」

 少々難儀だと思ったその時、目の前を彼女が通り過ぎた。無意識に視線で追いかけるが、その背は講義室へ消えていく。彼女、は同じゼミの仲間で見知った間柄だった。だがが一人という保証はどこにもない。先約があるかもしれない。しかし訊いてみないことには何もわかならない。時間が迫り講義室へ駆け込んだ俺は、運良く空いていた席に狙いを定める。もちろん上手く誘う方法を知るはずもなく、思ったままに口にした。

「君、25日は空いてるか?」

 その質問がいかに突拍子もないことであったか。「あ」と継いだちょっとの間が気になった。

「うん、空いてる。空いてるよ」

 空いている。これはそういうことと思っていいのだろうか。

「駅前のクリスマスマーケットに」

 肝心なことを伝えられないまま授業が始まり、俺は縛られたように前を向いてさっきのやりとりを何度も再生し続けた。要するに頭がいっぱいだったのだ。終わる頃にはスマートフォンの通知が塊になっていて慌てて講義室を飛び出す羽目になった。「そっちどう?」「ちゃんと誘った?」しつこいほどのクエスチョンに返信が追いつかない。結局なんだかんだと話しているうちにいつものメンバーが顔を合わすこととなった。そこで俺は少しミスをした。グループ宛で送信していなければ、もっと彼女と話ができたかもしれないのに。既読のついた画面を見つめ、ちょっと勿体なかったとため息をついた。


  *


「うまい!!」

 しまった、ついつい声に出してしまう。これを言うと皆が真似をする。それを知るはずのない父母に「外では少し控えるように」と言われたのは最近。なので控える努力はしているが、やはり美味いものは美味い。特に焼きたてのペッパーソーセージは最高だ。クリスマスの雰囲気がより美味しくさせているのかも知れない。ふと、視線を感じたのはその時だった。

「君も食べてみるといい、美味しいぞ!」
「ほんと? じゃあ私も……アツっ、でもおいひっ」

 彼女も小声で「うまい」と言って照れ笑いをする。それは間違いなく自分だけにむけられたもので、俺の背を押したのは間違いない。彼女のカップを覗き、それから自分のホットワインを慌てて飲み干す。友人との約束はきちんと果たしたはずだ、と普段は考えもしない言い訳が巡った。

「飲みものを買ってくる!」

 それから、こっそりと控えめに。

「君も来るだろう?」

 頷いた彼女に誰も気づいていない。追われては困るので、目立つ髪はフードで覆った。

「少しだけ迷子になろう」

 勢いで繋いだ手がはっきりと熱を持つ。そのまま小走りで人の波に呑まれ、店頭に並んだスノードームに関心を持つふりをした。

「そういえば手袋、今日はどうしたの? あ、いつもしてるイメージだったから」
「糸がほつれてしまったんだ」

 だから家に置いてきた。と、加えるべきか迷った。
 役目を終えたように思えたあの時、の顔が浮かんだ。ぴろんと伸びた1本の赤い毛糸。円卓で隣り合わせになったのも、きっと偶然ではない。