Episode10 (The final episode)


 あのとき少しでも違っていたら、どうなっていたんだろう。そんなふうに思うことがある。ただ、絶対的なこととして、わたしにとって圭介くんはまぎれもなく初恋の人だった。

 ユミちゃんたちの結婚式を機に、わたしと圭介くんは正式に付き合うことになった。圭介くんは大学が、わたしも仕事があるので頻繁には会えないけれど、最低でも週1回は顔を合わせる約束をしている。そして疎遠になってずいぶん経ってしまったペケJについて、圭介くんに訊いてみると昔ほど勝手に出歩くことは少なくなり、飼い主の家で元気にのんびり過ごしているという。「会ってみる? アイツ千冬の猫だからいつでも会えるぜ」とのことで、近々美味しそうな猫おやつを持って会いにいこうと思っている。

 それから数週間後の土曜日、わたしは林田組を訪れていた。ユミちゃんが淹れてくれた玉露茶を飲みながら応接台で物件資料を眺めていると、懸命に判を押していた社長、林田くんがふと思い出したように顔を上げた。
「あれ、今日バジも来るんじゃなかったっけ?」
「圭介くんは少し遅れるって、さっきメールが」
「なんか忙しそうだもんな、アイツ」
 こうして話している間にも、社員の林くんがせっせと資料を出してきて、あっという間にテーブルが埋まっていく。
「マジでどこでもいいからなぁ! オレ的にはここもイカした物件だと思うぜ?」
 これも、あれも、豪快にオススメされ、自分のお給料では支払えないような部屋がぞくぞくと出てくる。ごく一般的な2LDKから図面ではイメージし難い八角形の間取りのあるデザイナーズマンション、ため息もどこかに消えてしまうくらいの大豪邸に、X億円の高級住宅まで。
 わたしがこうして物件を探しているのには理由があり、なんと2次会のビンゴゲームで1等を当てていたのだ。先日片付けをしていたところ、パーティーバッグから賞品の《家賃2年無料カード》が出てきて再発覚した。そういうわけで、林田組にお世話になっている。今日は2回目の物件探し。目玉が飛び出るようなそれらをそっと避けて、資料を見比べていると遠くの方からかすかにバイクの音がした。
「あ、来た」
 革貼りの黒い椅子を降り、林田くんはいそいそと部屋を出ていく。彼は知り合いのバイクなら大抵誰が来たのかわかると言う。最初はその意味が理解できずにいたが、最近になってやっとわたしも圭介くんのバイクを当てられるようになった。ただし、集合場所の大ヒントありきの話であり、道路を走っているだけでは見当もつかないのが正直なところだ。

 エンジンが停止してすぐ、廊下から人の気配が近づいてくる。「今日は社長の出迎えかよ、VIP待遇じゃん」なんて言いながら、出入り口から圭介くんが顔を出した。
「どこか決まっ……てねーな、その顔」
 決まるどころか先週よりも更に難航している、とも言えず、わたしは苦笑いをした。そんなわたしの心中を察したらしく、視線はテーブルへ移る。
「こういうのはピンとくるのがいいんじゃね? ほら、コレとか」
 圭介くんはわたしが避けたX億円の資料を手にする。さっき林くんが推していた物件だ。
「さすがに広すぎるよ、わたしは……このくらいで十分かな」
 お風呂が3箇所もあることに気を取られていて、希望の部屋がパンドリーだったことに気づいたのはかなり後だ。
「まー、そうだな。掃除も面倒だし」
 圭介くんの意見に大きく同意して、結局そのまま資料を持ち帰ることになった。この日は9時からの約束で10時には終わる予定だったのに、1時間オーバーした。
「忙しいのに付き合わせてごめんね」
「そんなのいいって」
 近頃の圭介くんは「ムリ」などと即答は少なく、こんな調子でわたしに合わせてくれる。時々、無理をしていないか心配になるけれど、圭介くんはそれを跳ね返す勢いで「今までの分と思えばチャラだろ」と言うのでそれに甘んじている。圭介くんの友達は口を揃えて昔を考えればかなり丸くなったと言った。なんとなくわたしもそう感じていて、以前よりも圭介くんの根っこの部分が顕になった気がした。
「卒論は進んでる?」
「まあまあ」
 獣医学部は6年間と長い上、研修や実務ですごく忙しいと聞く。レポートや卒業論文も専門的なものばかりでわたしが手伝えることはほとんどなく、これまで唯一役に立ったのは研究室の貸出モルモット、0553番ことゴゴミちゃんが脱走しない方法を考えるくらいなものだった。それでゴゴミちゃんの歯がとんでもなく頑丈なことが判り、圭介くんの卒業論文の題材の候補が決まったのは良かったと言える。
「ランチどうしようか、どこか開いてるとこ入る?」
「それもいいけどさ」
 と、圭介くんはわたしにヘルメットを手渡し、少年のような顔で言った。
「昼飯のついでに行かね? ツーリング」

 最近、わたしも圭介くんのバイクの後ろに乗せてもらえるようになった。最初は1回きりの約束で、頼み込んで乗せてもらった。普段は危ないという理由で乗せたがらないので、今日は珍しい日。圭介くんと林田くんが言うにはわたしのタンデムの筋はそこそこ。これは圭介くんも意外だったのか、考えを改めてくれたようだった。
 だけど、音にしても種類にしても、わたしはとことんバイクに疎い。少しくらい分かったほうが良いだろうとバイク雑誌を読んでみたりしたが、今のところ成果は感じられず、もっぱら通販情報の安全グッズを見るに留まっている。なのでその程度のわたしが言うには説得力に欠けるかもしれないが、圭介くんのバイクの運転はかなり上手いと思う。今までヒヤリとした経験は一度もないし、怖いと思うこともない。いつも比較的、車の通りが穏やかな道を選んで走行してくれる。しかも地図も見ずにどこへでも進むのだから、本当にすごい。
 また、圭介くんはバイクに乗っているとき、時々昔の話をしてくれる。大抵は東卍のみんなで出かけたときのことで、知らないほうが良かったかもと思うこともあれば、羨ましく思うこともあって、それを聞くのがわたしの楽しみでもあった。
「そういや昔、みんなで大晦日の夜に九十九里行ったらさ、マジで死ぬかと思った」
 冬の海、吹き付ける潮風と極寒の砂浜。想像するだけであたたかい飲み物と厚手のコートが恋しくなる状況。そんな場所へ圭介くんたちは特攻服で出かけたらしい。
「うわっ、寒そう〜。初詣?」
「初日の出」
「いいな、わたしは年越しとかそういうの行ったことないかも」
「なら、今年の大晦日は初詣行こう」
「ほんと? 絶対寒いよ?」
「着込んでけば平気だろ。てか、腹減ったな」

 途中、通りすがりのカフェに寄ってランチをした。圭介くんはハンバーガー。一緒のものが食べたくてわたしも同じものを注文したら、それがものすごく大きい。厚切りのベーコンがバンズからはみ出ていて、口に入れるのがやっと。ナイフとフォークで頑張っていると、見かねた圭介くんが言う。
「かぶりつけば? 絶対そっちのがうまいって」
「ガブっと?」
「そ。ガブっと」
 圭介くんがそう言うなら。大きく口を開けたはずなのに、お皿の上にレタスやスライスオニオンがぽろぽろ落ちる。それにこの感覚、絶対に口の周りにソースとマヨネーズが付いている感じ。
「んっ」
「ははっ、ヘタクソ」
 圭介くんの言う通り、本当に下手だった。ほら、とすかさずペーパーナプキンをくれる。
「ありがと、……おいしい」
「だろ?」
 サンドされた食材が最高にマッチしていて本当に美味しい。だけど、ニイッと笑う圭介くんがわたしの前に居てくれることが何より嬉しかった。食べ終える頃にはもうすっかり満腹で、サイドメニューのポテトリングは圭介くんがほとんど食べることになり、最後の一口を頬張っている圭介くんへわたしは言った。
「あのね、圭介くん。物件のことなんだけど」
「っん、なに?」
「もし、圭介くんに譲りたいって言ったら困る?」
「オレは困んねぇけど、なんで?」
「ルームシェア、解消するって言ってたよね」
 わたしの考えは妄想に過ぎず、圭介くんのルームシェアは男友達の羽宮くんと千冬くんの三人だった。家賃が安く済むに越したことはないと、二十歳になって借りたという。圭介くんを除き、他の二人は社会人。そろそろ頃合いという話だった。それに、わたしは今も実家があるので必要に迫られているわけではない。
 物件資料を見ていると、カップル向け、二人暮らしOK、そういうものが目に留まった。圭介くんは共同生活もそこまで苦じゃないように見えるので、もしもの話。圭介くんと一緒に住んだらもっと楽しみが増えるのかな、と思う。朝ご飯を一緒に作ったり、家で映画を観たり、何でもない日々もすべて。同棲とか……。
「それは最終手段でいいじゃん。せっかくだし、またゆっくり探せば?」
「ゆっくり……そうだよね、そうする」
 圭介くんは不思議がっていたように見えたけれど、結局それを言葉にすることはなかった。

 お店を出ると、圭介くんはわたしの頭にヘルメットを付けてくれた。これは今までにないことで、どうしたんだろうと思っていたら不意に屈み込んだ圭介くんと目線が合う。
「ちょい緩くね? メット」
「あっ、どうかな?」
「そのままじっとしてて」
 ヘルメットがぐらつき、顔周りで金具がカチャカチャ鳴った。圭介くんの指先は、手洗いや消毒のためか少し荒れている。それは圭介くんが大学でがんばっている証であり、いつかの命を救う手でもあった。
「さっきより強めに締めた。ベルトきつくない?」
 うん、と頷いてもぜんぜんぐらぐらしない。
「完璧。じゃあ行くか」
「帰るんじゃないの?」
「その前にちょっと寄り道な」
 どこへ行くのか訊ねても圭介くんは教えてくれない。途中で立ち寄ったコンビニが目的地というわけではなさそうで、バイクは東京の街を走り抜けていく。速度も順調で、圭介くんは今日は空いてるとこぼした。不思議なことに、圭介くんと見る東京はいつもと違って見える。スカイツリーが建てられてから東京タワーが縮んで見えるというのは本当かもしれない。今まで気にしていなかったものが、こうして見えることがある。
 昔からそうだった。わたしは圭介くんといるとワクワクして、楽しくて、心が踊った。
「なあ、この辺覚えてる?」
「うん」
 最初は昔住んでいたマンション。わたしの記憶よりも古く感じたけれど、それ以外は当時のまま。次に猫を見つけた公園の近くへ立ち寄ると、滑り台が鮮やかな赤色に変っていて妙に目立っていた。その後、圭介くんと再会した駅前のロータリー付近をぐるっと回って、また広い道へ出た。信号で停まる度に圭介くんはわたしを気にかけてくれて、その度に胸を高鳴らせていることに、圭介くんは気づいていないのだろう。
「そういやガキの頃、引っ越すときに図鑑くれたじゃん? オレ、まだアレ持ってんだぜ」
 小学生のわたしは本屋さんで一生懸命それを選んだ。圭介くんが好きそうなものを考えて、いいなぁと思うものを開いたら難しい漢字が載っていて、わたしも読めなかった。それでもそれに決めたのは、いつかきっとわかる日が来るかもしれないし、わからなくても写真を見ているだけで十分に楽しかったから。絶対にこれがいいとわがままを言った。
 圭介くんへのお別れの贈り物は『またね』を託して、少し背伸びをした動物図鑑だった。


 帰り際、駅の駐車場に着き、なんでもないところ、誰かに聞かれても説明に困るようなそんな場所で圭介くんは不意に立ち止まった。
「コレ返すわ、一応」
「それ、……まだ持っててくれたんだ」
 一瞬それが何なのかわからなかったくらい、わたしもすっかり忘れていたもの。圭介くんがポケットから出したのは、いつかのメモ帳だ。
「渡したらもう会えない気がしてさ。そのままにしてたけど、もういいよな?」
 ぽんっとわたしの手のひらに乗せられる。少し古びたように見えたそれは一番上のページが捲れていた。雑な字で書かれた電話番号がちらりと見える。どうにか繋ぎ止めたくて、10代のわたしが急いで書いた文字。
 そんな状況で、あまりにもあっさり言うので理解が追いつかなかった。

「オレが卒業して獣医になったらさ、結婚しよう」

 圭介くんとわたしが、結婚する。
 わたしは同棲すら言い出せなかったのに、どうして圭介くんはいつもこうなんだろう。思い描いたようにはひとつもならない。なのに、必ずどこかで繋がっていく。
「わたし、圭介くんと結婚するの……?」
「オマエがそれでいいなら」
 その照れくさそうな顔を見て、わたしはぽろぽろ泣いた。
 嬉しいのと驚いたのと両方。今日は受け取るものが多すぎる。多すぎてパンクして、年甲斐もなくしゃっくりを上げて涙をこぼすわたしに、圭介くんはわかりやすく狼狽えていた。

これからも、ずっと

-- fin. --

◆ひとまず完結です。お読みいただきありがとうございました。
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