Episode1


 どういうわけか、わたしの秘密にはいつも彼とメロンソーダがあった。

 中学二年の春、わたしは初めて塾をさぼった。
 いつもの駅は夕暮れから夜にかけて、知らない一面をみせてくる。ただそこに立っているだけなのにわたしはとんでもなく悪いことをしている気がした。思うに、塾の欠席連絡を自分で入れた時点で専らそちらには向いていなかったのだ。

「もう帰ろう……」
 それは早々のギブアップ宣言の直後。知らない野太い男の声とともに、目の前に携帯画面が飛び込んできた。「君でしょ?」と、そこに映っていたのは同年代くらいの女の子。自撮り写真にわたしと同じセーラーの襟が見えた。肝心の表情はぼやけていてわからなかったけれど、うっすら見える健康そうな頬はあらゆる角度でイメージを膨らませる。だけど、これはわたしじゃない。
「ちがいます、人違いです」
 精一杯の拒否として、首を横に振った。そうすればすぐに引き下がってくれる、そう思っていたのだ。ところがそう単純な話ではなく、悪いオトナは世間知らずなわたしをずるずる引きずり込もうとする。
「ははっ、そんなことないでしょ」
 じりじり詰め寄られたわたしは助けを求めて通りを見た。だけど誰一人として気づくそぶりを見せず足早に過ぎて行く。こんなにも人が居るのにわたしが見えていないみたい、そう思った。もしこのまま連れて行かれたら……。想像するとゾッとする。助けてと言わなきゃならないのに、なぜか声が出ない。ふと防犯ブザーを思い出し、手探りでバッグを探る。たしか、入学時に貰ったものを持っていたはずだ。
 ——あれ、ない。なんで……あ。
 先日通学バッグを新しくしたばかり。防犯ブザーを入れ替えた覚えはない。つまりは、古いバッグの内ポケットに眠ったままということだ。
 ——そうだ、携帯。
 ポケットの中で握りしめたものの、手が震える。このまま出したら落としてしまうかもしれない。どうしようもなくなって、ぎゅっと目を瞑った矢先。「い゛っ」と猛獣のような声がした。
 即時、周囲が開けた気がして、恐る恐る足元を見たわたしはぎょっとした。さっきの男がつま先を押さえたままアスファルトの上でのたうち回っている。足の指が折れたと言ってゾンビ映画のように這いつくばる手がこちらへ伸び、反射的に後ずさった。すると忍び寄った黒いブーツが影を作り、男の額をバチンっと弾いた。
「ぃっダッ! このっ、クソガキ!」
 困惑するわたしなど目もくれず、男は額を真っ赤にして陸に上がった魚のようにジタバタ喚きながら改札口へ駆け込んでいく。その姿に、ようやくわたしは開放されたと理解したのだった。
「あ、ありがとうございました」
 やり方は少し荒っぽい気もするけど、とにかく助かった。一礼しその人物を見たわたしは息を呑む。
「……圭介くん?」
 ぽつりとこぼしたそれは、妙に幼く聞こえたのだった。


 彼と最後に話をしたとき、桜の木は蕾を身に着けていた。それが随分昔に感じるのは、それから三度目の春を迎えたためだ。いつだったか、友達が「男子は急に変わるよ」と言っていたけれど、それが本当だなんて知らなかった。今の圭介くんは昔よりも背が高く、髪も伸びて、おまけに私服で以前と雰囲気が違う。薄く口を開けたまま固まるわたしに彼は澄ました顔をする。
「つーか、オレのこと忘れてただろ?」
 反応が鈍かった、と圭介くんは言う。
「ちがっ、忘れてたわけじゃなくて、その」
 人は驚くと息の仕方も忘れてしまうらしい。恥ずかしいのとほっとしたので詰まった息を整える。一呼吸し、わたしはその顔を見上げた。
「ちょっと、びっくりしたっていうか……」
 赤褐色の瞳がかち合い、わたしは思わず目を逸らす。
「まぁ、気をつけろよ。じゃーな」
 そういえば、圭介くんってそういう人だった。
 わたしが頭の中で考えてる間に圭介くんはとっくに答えを出していて、さっさと行ってしまうのだ。あまりにもあっさりしすぎてそのまま手を振りそうになる。

「あの!」

 それを思い出すと同時に、わたしは幼子のように圭介くんの服の裾を掴んでいた。何だこの手、そんな顔で圭介くんはわたしを凝視している。慌てて手を離し、自分の背中に隠す。
「あっ、さっきは……ありがとう」
「おう」
「その、ほんとに、すごく助かった」
「ああ、もういいって」
「あ、うん……」
「なんだよ?」
 お礼を、と思ったけれどなかなか言い出せない。気だるそうな圭介くんの視線がたまらなく気まずい。
「……なんでもない、引き止めてごめんね」
 じゃあ、と帰ろうとするわたしを今度は圭介くんが呼び止めた。
「なあ、オマエ喉渇いてねー?」
「え」
「どーせ暇なんだろ? ってもダチと会うから30分くらいか、どうする?」
 仮にそれが10分だったとしても同じように答えたと思う。拒否する理由はなく、わたしは小さく頷いた。

 圭介くんに付いて駅の表側に向かったわたしは視線をあちこちに向け歩いていた。居酒屋と美容室、囲碁サロンの看板。ダーツバーのピンク色のネオンがチカチカ光っていて眩しい。建物の隅には商品パネルが白く濁ったタバコの自動販売機があった。たぶん、わたしが生まれる前よりずっと前からここにある。誰でも買えてしまいそうなほどに無防備でどことなく怪しい。物珍しく思って眺めていると、圭介くんが立ち止まる。
「あーソレ、噂じゃ金だけ吸い取られるらしいぜ」
「へぇ……」
 自然とバッグを持つ手にも力が入った。圭介くんはわたしの学校では通行禁止となっている細い道をすいすい歩いて行く。街灯というには心もとない明かりの下ではユスリカが飛び回り、ビルの裏口には飲食店のものだろう、ビール瓶や酒瓶が積み上げられている。なんとも言えない匂いが漂っていて、時々鼻をつまみたくなった。
「どこに行くの?」
「もう着いた」
 ここ。と圭介くんが向かったのは、わたしも知っているファミリーレストランだった。どうやら近道をしたらしい。実を言うとどんな店に向かうのかちょっとドキドキしていたのだけれど、それが思い切り顔に出ていたようだ。圭介くんはすっかり見透かした顔でわたしを見た。
「どこ行くと思ったんだよ」
「べ、べつに」
 久しぶりに入ったファミレスはまるでわたしたちしか居ないみたいに静まり返っていた。“ファミリーレストラン”なのに家族が一組も居ない。居るのは勉強に励む大学生と高校生らしき人、疲れ切った顔のサラリーマン、と、とにかく各テーブルが静寂を守っていた。「2名様ですね、お好きなお席にどうぞ」と店員さんの案内にわたしは頷いた。
「どこ座る? オレはこだわりねーけど」
「わたしもどこでも……窓際は? もちろん真ん中でも、あっ、角の席も空いてるね。えっと……やっぱり窓際で」
「窓際な」
 圭介くんと話すたび、全部の会話を自ら吹聴しているように思った。また、居心地の悪さを感じたのはそれだけではない。「ドリンクバーでいっか」と慣れた様子の圭介くんに従ったわたしはカウンターでグラスを持ってまごまごする。
 ——ドリンクバー、ドリンクバー。ドリンクバーってどうやって注ぐんだっけ?
 そして圭介くんの好みも訊かずに勝手に二人分のジュースを注いで来てしまった。丁寧に限定のピンクのストローまでつけて。おまたせとテーブルにつくと、圭介くんは無言でそれに視線を落とす。
「ごめん、もしかして苦手だった? メロンソーダ」
「いや、」
 と、少し間をおいて「ありがとな」と圭介くんはグラスを手に取り、一口も飲まず次々と湧き出る気泡を目で追った。そして向かい合わせに座ったことで、わたしの空回りはますます拍車がかかった。
「今日は塾が休みで、あのね、わたしあの塾に通ってるの。あそこ」
 と窓の外を指さしたものの、すぐにその手を引っ込めた。ビルの5階は煌々としていて、窓ガラスに貼られた《難関校・受験相談受付中!!》の文字がよりくっきり見える。今頃になってここが塾の目の前ということに気づくわたしはとても愚かだ。圭介くんはそれを流し見ると、わたしの方へ向き直った。
「今日は、行かなかったけど……」
「だろうな」
 なんだか居たたまれなくなり「圭介くんはあそこで何してたの?」と言いかけて、思いとどまった。圭介くんもわたしと同じ中学生、互いにあんなところにいたのは変わらない。それに私服姿の圭介くんと制服のわたしでは、どちらが先に補導の的になるか一目瞭然だ。
「そういえばオマエ、今どこに住んでんの?」
「わたし? ここから2駅先だよ」
「へぇ。前の所と近けぇーのな」
「うん。圭介くんは今もあそこに住んでるの?」
「あー、引っ越した」
「え、いつ?」
「去年の夏だったか、その辺」
 あからさまにつまらない声になったのがわかり、わたしは口ごもった。急に何を話せばいいのかわからなくなってメロンソーダに口をつける。友達と話しているときは湯水の如く話題が溢れて時間が足りないくらいなのに、今は頭の隅々までつついてあらゆる引き出しを引っ張り出さなければならない事態に陥っていた。挙げ句には、
 ——本当にケイスケくんだよね?
 なんて考える始末だった。だけど目の前の「彼」は間違いなく「彼」であり、そしてわたしの好きな人だ。



 わたしは小さい頃、父の仕事の都合でよく引っ越しをした。友達ができてもすぐに別れがきて、そしてまた新しい友だちを作るのルーティーン。その狭間、わたしは圭介くんと知り合った。だけどしばらくしてまた越したので、その後の圭介くんをわたしは知らない。
 どこの学校で、誰が友達で、どんなことを楽しみにしているのか。
 昔から元気でちょっと元気すぎるくらいで、なのでそのつもりで話しかけてしまった。でも、さすがに一方的すぎたかもしれない。
「なんか食う?」
「あ、大丈夫。圭介くんは?」
「オレもいいや」
 数年のブランクは思いのほか大きい。まだまだ大人には遠いけれど、さすがに小学生のようにはいかない。話したいことがあるはずなのに、さっきから考えがぐるぐる回ってばかりだ。
「メロンソーダって、メロンじゃないのにどうしてメロンソーダなんだろうね」
 どうしてこんなことを言ってしまったのだろう。圭介くんだけでなく、誰でも返事に困るに決まっている。
「え、これメロンじゃねーの?」
「うん」
 メロンじゃない。お祭りのかき氷のシロップも全部同じ味。イチゴもハワイアンブルーも。宇治金時は小豆が乗ってるから違うかもしれないけれど。どうにか間を持たせたくて、あらん限りの薀蓄うんちくを吐き出しそうになったところで圭介くんが口を開いた。
「マジか……」

 それからしばらく無言の時間が続いた。圭介くんはずっと炭酸の泡ばかり見ている。わたしは様子を窺いながら隠れるようにバッグからメモ帳を取り出した。そして自分の携帯番号を書き込んだ。片手はテーブルの下で携帯を握りしめては離すを繰り返す。「圭介くん、わたしの連絡先なんだけど」と何度も練ったセリフはメロンソーダに流し込まれていった。話したいことがあったのになんとなく憚れる。でも時間は常に平等に過ぎていて、30分なんてすぐだった。
「……そろそろだね」
「もうそんなだっけ」
「うん」
 わたしは通学バッグを持ってそのまま立ち上がる。
「今日は本当にありがとう。わたしね、火、木と、土曜日の午後は塾で、——」
 都合が良いのか悪いのか、携帯がブーブー煩く鳴った。きっと塾をサボったのがばれてしまったのだ。元気そうな声で「欠席します」と言ったのがまずかったのかもしれないし、単に塾の先生の勘ぐりかもしれない。まだ通話ボタンを押していないのに「今どこにいるのよ?」と声がしそうでわたしは焦った。ファミレスなんて言ったら今度は「誰といるの?」と聞くに決まっている。そして何のために私立の女子校へ入れたのかと始まるのが落ちだ。わたしのお母さんはそういうところがある。
「じゃあ……圭介くん、またね」
 わたしは振り向かず、2人分の会計を済ませてそのまま店を出た。携帯を見ると何件も着信が入っている。発信者はやっぱりお母さんだった。言い訳を考えなきゃいけない。お腹が痛い、頭痛がする。ダメだ、薬を飲まされるかもしれない。もっと言えば夜間病院へ連れて行かれることもあり得る。もう治ったということにしておこうか。
 とにかく、これは秘密にしなければならない。
 しかも、わたしは圭介くんに連絡先を渡しそびれた、というよりメモ帳ごと椅子の上に置いてきてしまった。本当は戻ってもよかったのだけれどそのままにしておいた。どうせ大したことは書いてないし、今度行ったときに忘れものを訊いてみよう。無くなっていたらそれまでだ。
 それから数分後、再び携帯が鳴った。重たい気持ちが更に重くなる。
「も、もしもし……?」
『あ。やっぱオマエのか』
「え、あ、圭介くん?」
『今どこ? コレ持ってく』
 わたしは周囲を見て、小声で言った。
「ごめん、今バスに乗っちゃった」
 ちょっとずつ、
『どうすりゃいい?』
「もしよかったら、今度会うときにでも渡してもらえたら嬉しいんだけど。もちろん、迷惑でなければ……」
 ちょっとずつ、
『……まあ、いいけど』
「ありがとう……じゃあ、また」
 鼓動が大きくなっていく。

 プツっと切れたそれを耳に当てたまま、バッグのショルダーを握りしめた。本当はバスには乗っていないし、メモ帳だってそこまで重要ではない。
 でも不思議と心は軽くて、駅に立っていたときよりずっとずっと緊張していた。

メロンソーダの夜