Episode2


 わたしが圭介くんと出会ったのは、小学3年の夏休みだった。
 小学生までは一緒に過ごすという家庭の決め事で、この頃のわたしは結構な頻度で引っ越しを繰り返していた。まずはご近所挨拶が大事、とお母さんに連れられ、いくつもの家を回る。引っ越し挨拶用のタオルセットを持って回る度、お母さんは「やっぱり、お菓子のほうが良かったかしらね」と後悔の言葉をこぼした。だが仮にお菓子を買っていてもお母さんは真逆のことを言ったと思う。そんなことを考えていたら、何かがツンと靴先に触れた。

 ジジッジジジジジー

「ギャッー!」
 わたしは触れてはいけない時限爆弾に接触した。行き先を見失ったそれは、ネズミ花火のように跳ね回る。
「ちょっと、静かになさい」
「うっ」
 冷静で居られるのが不思議でならない。どうして大人は平気なのだろう、といつも思う。
 同じ紙袋を抱え、役所からもらった地図を見て、わたしたち親子は玄関前を何度も行き来した。そして最後となったマンションの一室、チャイムを押すとインターフォン越しに声がしてほっとした。一件前の御宅はチャイムが壊れていて、声で家主を呼ばなければならなかったので、引っ込み思案のわたしにはそれがとても億劫だった。
「あ……御免くださいませ、近所に越してきた者です」
 見られているのかわからないけれど、インターフォンの黒いレンズに向かって頭を下げる。だけど、わたしは全てを憶えようとしていなかった。疲れすぎて誰がどこに住んでいるなんてどうでもよく思えていたのだ。それもこれも、数年後にはさよならすると決まっているから。
 しばらくするとガシャンとドアが開いた。解錠とともに人見知りを発動したわたしは母の服を握りしめる。一瞬、無言になったわたしたちに目の前の女性は困った顔をしてた。
「えーと、なんでしたっけ?」
 黒髪のロングヘアー。玄関に並んだ母親のものと思われるピンヒールのサンダル。それから男子がよく履いている定番スニーカーが片方だけそっぽを向いて転がっていた。
「はじめまして。突然すみません、近所に越してまいりましたと申します」
 これを逃すまいと、わたしもそれに続く。
です。3年生です。よろしくおねがいします」
 ああ、とすぐに理解した様子で目の前の女性は言った。
「場地と申します。うちも息子が一人……ケースケ、こっちに来な!」
 奥の部屋に呼びかけるその人は、涼子さんと言うらしい。若くて、綺麗で、
「ったく、うちのは何してんだか……ケースケ、早くしな!」
 そして少し怖かった。思わず母と顔を見合わせたわたしを見て、涼子さんははっとした顔をして苦笑いする。すぐにドシドシとわざとらしい足音が近づいてきて、
「ったく、さっきから何だよ! 便所って言ってんじゃ……」
「挨拶しなさい! 同級生、新しい友達」
 男の子は目を丸くしたかと思えば、涼子さんによって強制的に頭を下げさせられた。まったく感情の入っていない声で「ハジメマシテ。バジケイスケデス」と言った。それがわたしと圭介くんの最初の会話だった。はっきり言ってしまうとわたしは圭介くん親子を怖い人だと思っていたし、これっきりだと思った。だけど圭介くんのお母さんはああ見えてとても面倒見のよい人で、
 ——まだ土地勘ないでしょ? この辺危ないから初日はうちの子と一緒に通わせたらいいよ。友達なんてさ、そのうちできっから。
 上級生や下級生のお家も回ったけれど、こんなふうに言ってくれる人はいなかった。『な、ケースケ!』といきなりの同意にゲッと嫌な顔をされると思いきや、意外にも圭介くんは文句を言わなかった。それどころかあっさりと「7時半に駐輪場」と言い残して部屋に戻っていった。「ごめんねー、あんまり愛想なくてさぁ」と涼子さん。だけど彼に対するわたしの印象は特別にひどいものではない。これまでは無言で会釈するのが当たり前と思っていたこともあるかもしれないが、気のいい男子といった感じだった。そんなこともあって、彼のヤンチャっぷりを知ったのはかなり後になってからだ。

 そうして迎えた転校初日の9月。薄曇りの中、わたしは言われた通り駐輪場で圭介くんを待っていた。
 おはよう!
 元気よくそう言うつもりでいたのに、昨晩から、引っ越しのトラックを迎えてから。いや、前の家でダンボールに荷物を詰め込んでいたときからずっと考えている。いの一番に出た言葉はどうしようもない言葉だった。「おはよ」と眠そうな顔の圭介くんに向かってわたしは今にも泣きそうになりながら言った。
「友だちできなかったらどうしよう……」
「はァ? それで朝から湿気たツラしてんのかよ」
「だって」
「そんなの今考えたってどうしようもねーじゃん」
 意外にも圭介くんはわたしより現実を理解するのが得意なようで、今考えるべきことは朝の挨拶と給食のことだと言った。圭介くんいわく「他は寝てればなんとかなる」らしい。
「どうせならもっと楽しいこと考えろよな」
 圭介くんの言うことは尤もだった。考えてもどうしようもない。だけどわたしにとって、転校はワクワクするものではなかった。親の都合で引っ越しすることは珍しくないと理解していたけれど、半端に幼いわたしが受け入れるには時間がかかった。現実が近づいてくると途端に前の学校の友人が恋しくて、寂しい気持ちになった。友達からのお別れの手紙をポケットに忍ばせて、『何かあったらうちに来て! ママに頼んであげる。一緒に住もうね』という言葉を本気で信じていたりした。だけど実際は何十キロも離れた家におじゃますることはもちろん、住むことは無謀なことで。わたしはまた一から始めなければならないのだ。
「なんかあったらオレに言えよ、そんなしょーもねー奴、ボッコボコにしてノしてやっからさ」
 シュッシュと腕を前に出して、ニイっと笑う。その顔は勇ましく、わたしにとってどれだけ心強かったことか。
「ふふっ」
「オマエ、信じてねーだろ」
「そんなことないよ」
「いや、ゼッテー信じてねーなその顔。だって……あっ、やっべ!」
「どうしたの?」
「このことマイキーに言うの忘れてた!」
「マイキー?」
「オレの友達。色々やべーけど、いいヤツ。で、ワガママ」
「やばいのに、良い人なの?」
 しかも、わがまま。
「そ。そんで、真一郎君はすげーカッコよくってさぁ〜!」
 興奮気味に語る圭介くんは夏の夜空のようにキラキラした目をしていて、心の底からかっこいいと思っているのがわかった。そして真一郎くんはマイキーくんのお兄さんで、バイクをいじるのが好きなこと、昔はリーゼントヘアーがこだわりだったこと。そして、とても優しいこと。気づけばわたしは圭介くんよりも先に、マイキーくんでもなく、佐野真一郎くんについて詳しくなっていた。
「真一郎くんって同じ学校?」
「真一郎君はちげーよ、10コ上」
「え! じゃあ真一郎くんじゃなくて真一郎さんだ。大人なんだ、いいなぁ……」
「オマエ、大人が好きなわけ?」
「そんなんじゃないよ、なんとなく大人っていいなって」
「ふーん。でも大人ってつまんねーと思うぜ」
 圭介くんは校門の近くまでついてきてくれて、それ以降はバラバラになった。男子と登校するのは目立つから、と。肩の荷が降りたわたしは初めての挨拶もイメージ通りに話せた。そのおかげかスタートは想像よりもうんと好調で楽しい毎日が予感された。でも、わたしは何も知らなかった。すべてを額面通りに受け取っていたその数日後、重大なことを知ったのだ。

 どのクラスにも、場地圭介くんが居ない。

 どういうことかと思うのは当然だ。それを告げたとき、お母さんはみるみる青白くなりプリントを漁った。そしてお父さんを連れてもう一度圭介くんの家へ菓子折りを届けにいき、それからちょっと大事になった。原因はお役所の人が引いた地図のラインが太すぎてズレていたこと。圭介くんは知っていたはずなのにどうしてわたしに付いてきてくれたのか不思議でならなかった。おそらく暇つぶしだったのではないかと思う。「なんか面白れーことないかな?」としょっちゅう言っていたから。ひたすら謝る大人たちを尻目に、圭介くんは小声でコソッとわたしに言った。
「ほら、やっぱ大人ってつまんねーじゃん?」
 つまらないというより、大変だ。わたしはできるだけ『大変』を減らさなければならないと考えていたけど、圭介くんはそうではなかった。例えば、公園でランドセルが汚れても、スニーカーが砂まみれになってもちっとも気にしていなかった。涼子さんはそれを見るたび「どういう遊び方してんのよっ!」と圭介くんを叱っていたようだけれど、ほとんど効いていなかったように思う。もちろん、ただ物を粗末にしているわけではない。彼にはいろんな理由があったのだ。そのためにちょっとだけ犠牲になったのだと、わたしは思う。

 その一つに、側溝に隠れていた猫を助けたことも含まれる。公園で上級生にいじめられている友達を助けに入ったことも。砂場で物を無くしたといえば、できる限り探し回った。もちろん、勝手にケンカを始めたこともあったようだけれど……。一度、下校途中にそれに出くわして、どうしてそんなことをするのか訊いてみたことがある。
「なんでって、目が合ったらしかたねーじゃん」
「ケンカは良くないよ」
「そもそも、あっちが先に仕掛けてきたんだぜ?」
「でも、……いきなりパンチは痛いと思う」
「じゃー何ならいいんだよ」
 だんだん小言のようになってきて、圭介くんは面倒そうな顔をした。第一に、胸ぐらを掴まれたら黙っていられるわけもなく「マイキーなら蹴り倒してる」らしい。圭介くんはあれよりマシというけれど、わたしはマイキーくんを知らないし、男の子の気持ちもあまりわからなかった。代わりになるものでちょっとだけスカッとするものなんて、あまり思い浮かばない。
「んー、デコピン?」
「弱っわ!」
「ね、ここ擦りむいてるよ?」
「ん? あー」
 相手の洋服のボタンをかすめたのだろう、拳にうっすら血が滲んでいる。わたしはランドセルに常備している絆創膏を取り出し、圭介くんに手渡した。
「はい、これ」
「これくらいほっときゃ治るって」
「服に血がついたらまたお母さんに叱られるよ? いいの?」
「はぁ……わーったよ」
 そして拳を見て、圭介くんはお礼を言いながらげんなりした。
「なんなんだよ……」
「かわいいでしょ」
 プリントされた黒猫は圭介くんを見守っているみたいだった。



 その翌年、わたしはまた転校することになった。「短い間だったけど」とお決まりのセリフに加えお別れのプレゼントを用意した。わたしはお小遣いを追加して、圭介くんの好きそうなものを選んだ。
「なんだこれ?」
「あとでのお楽しみ」
「んー? ありがとな。あ、面白しれぇヤツいたら教えろよ」
 ぶっ飛ばすからとシュッと拳を握り空を切った。もちろん、涼子さんは激怒した。それでもわたしたちはフフッと肩を揺らして笑いあった。

「じゃ、またね」

 もちろん寂しい気持ちもあった。また、なんてもう無いかもしれない。
 だけどわたしには圭介くんがいる。
 そう思うだけで、たとえ新しい友達ができなくてもこれからの続きを耐えられる気がした。

きみとわたし