Episode3


 来週の月曜、なんか用事ある?

 要件のみが書かれているのがいかにも圭介くんらしい。
 圭介くんがショートメールをくれたのは昨晩のこと。そろそろ寝ようとベッドに入った瞬間、それが送られてきた。再会から三週間あまりが経ち、すっかり油断していたわたしは目が冴えて眠るどころじゃなくなって、考えに考えた返信は「大丈夫だよ」。そして圭介くんの返信でそのメールは終了した。そのため翌日のわたしは執拗に携帯を見ることになった。もしかしたら夢なんじゃないかと考えてしまう。でも携帯のフォルダには未分類にしっかりとそれが残っていて、その紛れもない事実と上乗せされた寝不足は、授業中のわたしを上の空にさせたのだった。

 学校が終わったら、駅の公園で。

 わたしはいつもの下車駅を乗り過ごし、待ち合わせ場所として指定された場所へ向かった。10分、15分、それ以上経っていたかもしれない。急用、それとも忘れているとか。まさか事故にでも……と、ソワソワした気持ちが頂点に達したところへ、彼はやって来た。
「悪りぃ、遅れた」
 面倒なことに巻き込まれた、と圭介くんは空いていたベンチに座る。一瞬、わたしもその隣に座っていいものか考えて腰を下ろした。そして言うか言うまいかちょっと悩んで口にした。
「それ、どうしたの?」
 圭介くんは左腕を三角巾で吊っていた。どうみても骨折の形だ。
「ちょっと前に体育で張り切りすぎたつーか、転んだっつーか……」
 圭介くんはのらりくらりと理由を言った。だけど運動は得意そうに見えるし圭介くんが体育で失敗する姿は想像できず、わたしはまじまじとそれを見つめた。
「大丈夫?」
「おう。来週コレも取れっし、ほとんど治ったようなモンだな」
 と、掌を開いたり閉じたりして確認してみせる。
「……そっか、でも無理はしないでね」
 わたしが驚いたのはそれだけではなかった。べったり分かれた前髪と一つに束ねた後ろ髪。学校指定のネクタイも緩めずにビシッと襟元でしめられている。
「圭介くんの学校、校則厳しいの?」
「さあ? あんま気にしたことねぇや。なんで?」
 まさか「わたしの想像と違った」なんて言えるはずもない。制服を着崩すことなく正しく着ているのは良いことなのに、違和感を抱かせたのはいかにもなメガネのせいかもしれない。
「わたしの学校も結構厳しいから、どこもそうなのかと思って」
 すると圭介くんはおもむろにメガネを外し、ポケットにしまった。それからじっとこちらを見る。途端に胸が詰まったようになって、わたしは無意識に背筋を整えた。
「その制服、あんま見ねーよな」
「セーラーのこと?」
「いや、全体的に」
「そうかな、電車では見かけるよ」
「電車?」
「わたしの学校、地元のコは少ないから。バスとか電車通学が多いかな」
「へー」
 特別に珍しくないと思っていたが、それはわたしの視界がそうさせているらしい。話していると圭介くんがどんな学校生活を過ごしているのか興味が湧いた。体育で頑張っている姿はもちろん、委員会や授業の風景。普通ならなんでもないものを見てみたい。
「わたしも圭介くんと同じ学校に通ってみたかったなぁ」
 残念ながらそれは叶いそうにないのだけれど。少なくともわたしはあと5年は同じ学校に通うことになっている。更に言えば、最長10年。所謂、中・高・大のエスカレーターだ。毎年クラスの3分の1はどこかで脱却を試みるのだが、そのまま通う人もそこそこ多いと聞く。
「学校なんてどこもやること一緒だろ」
「そうなんだけど……」
 勉強、テスト、部活。同じだけど、同じではない。そう思うと少しだけ寂しい気持ちになった。ちなみに圭介くんの学校は男女ともにブレザーらしい。
「『もっと楽しいこと考えろよ』だ」
「あン?」
「むかし、圭介くんわたしに言ったよね」
「そうだっけ?」
「うん。あれからわたし、結構考えてるよ。それでなんとかなったことも多くて、ありがとう」
 今更だけど、と笑ったわたしに対し、圭介くんは顔色を変えずにため息を吐く。
「なるほどな」
「え?」
「それであんなとこに突っ立ってたわけか。でもまぁ、あそこはやめとけよ。アレよりやべー奴はいくらでもいっから」
 たまたま通りかかったからよかったけど、と圭介くんはぶつぶつ言う。
「もう行かないよ、ただあの時は……少しだけ違うことをしてみたかったのかも」
 圭介くんは妙に鋭いところがあるように思う。わたしは自分でも気づかない部分を剥がされたような心地がした。いつも同じ。その変わりない日々に刺激を求めていたのかもしれない。そう言えばこの場所ニュースで見かけたな、とぼんやり思っていたらふらりとあの場へ足が向いていた。この前受験が終わったと思ったのにまだ続いているなど考えたくもない話で、当たり前のように通っている塾を更に5年通うことを考えると憂鬱にだってなる。そして、夜の街に消えていく少女たちのニュースがとても鮮明に浮かんだのだった。
「圭介くんは、そう思うことないの?」
「ねーよ、んなこと。そもそも考えるのがめんどくせぇ。それより最近うちに出入りしてるのがさ、似てんだよ」
 あんときの奴と。と、圭介くんは言う。



 あのとき—— 小学4年の秋。わたしははじめて寄り道をして帰った。
 その日は落ち葉が舞っていて、少し肌寒かったのを覚えている。そしてちょうどこの公園を通り過ぎようとしたわたしは、その声を拾った。赤ちゃんのような、ミーともミャーとも言い難い声。だけど植木の辺りを探っても見つからない。耳を欹ててそれを追っていると地面に顔をぶつけそうになった。頑張って奥を見ようとしたけれど、側溝の蓋が邪魔で奥まで見えない。
「なあ」
「ぅわっ! び、びっくりしたぁ」
 飛び退いたわたしはランドセルの重みに負けて、思い切り尻もちをついた。偶然にも友達と遊んでいた圭介くんと出くわしたのだった。
「オマエ、さっきからずっとパンツ見えてるぜ」
 えっ、と慌ててスカートとお尻を抑えたけれど手遅れ。
「ぱ、スぅ、スパッツだからっ!」
 わたしは恥ずかしくてたまらないのに圭介くんはけろっとしている。
「で、何してんだよ」
「声がするんだけど、見えなくて」
「なにが?」
「ここに……この下に猫がいるかもしれない」
「はァっ? ちょっと退いてろ。あ、コレ頼んだ」
「え、あ、っわ」
 ポイッと投げられた給食袋と上履き入れを慌てて抱きかかえる。地面は数日前の大雨の名残でひどく湿気っていた。そこへ圭介くんはランドセルを放りなげて跪く。
「おー、いるいる。ったく、なんでオメーはこんなとこ入んだよ」
 そして金網が邪魔だと言いながら、思い切り側溝をこじ開けた。その光景にわたしたちは揃って仰け反る。
「ゲっ」
「うわっ」
 側溝の下は落ち葉やお菓子のゴミが固まってドロドロの汚水になっていた。びっくりして固まっていると、圭介くんはなんの躊躇いもなく両腕を突っ込んだのだ。そして腕に抱えてシャツで体を拭う。それを見てわたしも慌ててハンカチを出したがすぐに使い物にならなくなった。ただ、幸いなことに猫自身は痩せておらず、どちらかと言うと健康体そのもので、ほっとしたわたしたちの心を置き去りにし、あっという間に逃げ去った。
「もういっちゃった……」
「そんなもんだろ」
 あんなに心配したのに、と言っても動物には関係のないこと。
「ごめん、洋服」
「べつにオマエが謝ることじゃねーよ」
 夢中になっていたとはいえ、問題はここからだった。当然ながら地面もしっかり雨水を吸い込んだまま。圭介くんのスウェットパンツの膝小僧は黒っぽく変色した。上のシャツに至っては泥を被ったみたいにあちこち汚れている。なのにわたしは尻もちの跡とハンカチが黄土色になっただけ。水道で洗ったところで落ちそうにないそれらに途方に暮れた。圭介くんは墨汁よりマシと言ったけれど、泥だって相当な厄介者だ。今の圭介くんの格好は『しっかり遊んできました!』と言っているようなもの。そしてそのまま帰宅したわたしたちを出迎えたのはカンカンに怒った涼子さんとお母さんだった。帰るはずの時間に帰らず、二人してどこかしら泥をつけているのだから無理もない。「……アンタたち、なんか隠してんでしょ?」とじろりと見た。「べつにィ?」と圭介くんはなんでもないように言い、わたしは大罪を犯した気分だった。友達のお母さんに叱られることがこんなにも怖いことだと知らなかったのだ。でも、決して口を割らなかった。というのも、わたしたちは更に寄り道をして帰った。夕暮れの音楽に慌てたわたしに「どーせ叱られんだから今日はトコトンあきらめよーぜ」という圭介くんの案に乗ったのだ。圭介くんの言葉を借りるなら、面白そうだったから。わたしは絆創膏と同じくランドセルに常備していた100円を使ってあるものを買っていた。
「圭介くんはどれにする? わたしメロンソーダ!」
「じゃ、オレも」
 ずっと興味があったのに、わたしはこれを口にしたことがなかった。着色料がどうとかとお母さんに言われて止められていたから。
「これ、秘密にしようね、絶対だよ?」
「わかってるって」
 水を注いだだけで本当にジュースになるのか疑いながら、美味しいのかなと話しながら、わたしたちは魔法の粉末ジュースを大切にポケットにしまった。 




「頭に傷があんだけど、妙に懐いてんだ」
 話によると圭介くんの自室にはどこかの飼い猫や野良猫がしょっちゅう出入りしているらしい。きっとすごく可愛いのだろう、圭介くんの顔がちょっとだけ緩んだ。
「その猫も圭介くんのこと好きなんだよ、きっと。動物って、自分たちを好きな人間がわかるらしいよ」
 ちらりと圭介くんを盗み見てみたけれど、何を思っているのか分からない。好きな人と解かりあえるなんてどんなに良いだろう。でもそんなことがわかってしまったら世界中のカップルが冷静ではいられなくなってしまうだろうし、わたしだって半狂乱になるに違いない。
「写真とかないの?」
「あ、写真撮りゃいいのか。あいつマジで逃げ足だけ早くてさ。どうやったら見せれっか考えて……」
 いきなり無表情に戻った圭介くんは「なんでもねぇ」とボソリと言った。
 実はメールを貰ったとき、わたしは少し疑問に思っていた。圭介くんの自宅からは遠いのに、わざわざこの公園を選んだ理由を。もしかしたらここにその猫が現れるかもしれない、そう思ってくれていたのだろうか。ここが縄張りだとしたら偶然もあるかもしれない。
「写真撮れたらわたしにもみせてね」
「……うまく撮れたらな」

 今日の圭介くんはおしゃべりで、わたしもおしゃべりだった。わたしは圭介くんに「あのときのメロンソーダ、どうなった?」そう訊ねるつもりでいたのにすっかり言いそびれてしまい、そのまま流れで帰宅した。
 駅の一件があってか「寄り道すんなよ」と釘を差され真っ直ぐ帰宅すると、圭介くんから着信が入る。
『あ、もう家?』
「うん、今帰ったよ」
『あ、そ……そんだけ。じゃあな』
 わたしがこの電話について思ったのは、圭介くんはけっこうマメということ。そして意外にも心配性であること。それ以外のことは深く考えていなかった。

あのとき