Episode4


 昼食のサンドイッチを完食し、デザートのゼリーを食べながら噂話に耳を傾ける。

 隣のクラスに東卍トーマンのメンバーと付き合っている人が居るらしい。

 その辺りに関しては全くと言っていいほどに無知なわたしは、うっかり「ね、トーマンって何?」と言ってしまい友達に呆れ笑われた。友達の話では都内にはいくつか不良グループがあり、中でも《東京卍會》は黒の特攻服で有名で、不良のトップという。また言い換えれば、隣のクラスには不良の彼女がいることになり、ちょっぴりアバンチュールな恋愛観に加え女子中学生の多感さが、その噂により一層火をつけていた。

 わたしと圭介くんは一定の距離を保ったまま秋を迎えた。互いにテストや学校行事に追われたこと、わたしが休まず塾へ通っていたこともあり、圭介くんと会うことはほとんどなかった。もしかしたら、それらしい理由を付けて誘えば応じてくれたかもしれない。だけどその勇気がわたしにはなかった。友達が「思い切ってデートに誘えば?」と言ったことも、メールを出し渋った原因の一つだ。なにしろ圭介くんから見たわたしのポジションがあまりにも不明瞭。
 元ご近所さん、友達、それともただの顔見知り。
 圭介くんに訊けば一瞬にして答えは出るのだろうが、それは告白を意味しているようなものだ。好き、という言葉を考えるだけで顔が火照ってしまう。デートの段階ではないのは言うまでもない。

「彼氏かぁ……」
 友達の呟きが教室の隅々まで染み渡る。そんな昼休みも僅かとなった、その時。机の上で細かに振動しているそれに心臓が飛び出しそうになった。圭介くんからだ。両手で携帯を抱きしめて教室を飛び出したわたしは人目に付かない場所を探し回った。2階の階段は声が通りやすいので却下。校舎の中庭は人が多い。職員室の裏などもってのほか。と、うろうろする内に着信は途絶えていた。折り返そうと通話ボタンに手をつけ、ストップする。圭介くんの学校だってもうすぐ昼休みが終わる頃だ。せめてメールを、とフォルダを開くと予鈴が鳴り慌てて「放課後に電話するね」と送信し、教室へ戻ったのだった。終礼後、意を決して携帯を開いたわたしは落胆した。
 ごめん、もう解決した。
 圭介くんからメッセージが入っていたためだ。せっかく連絡をくれたのに、がっかりしたのは否めない。どう返すか悩んで、画面にカーソルを合わせたまま手が止まる。その数分後、わたしは急いでキーを打つ。躊躇っていたメールも用件があるとすんなりと送れるのだから不思議だ。



 その週の土曜日、塾の終わりにファミレスへ向かうと、髪を下ろしてラフな格好をした圭介くんが待っていた。腕はすっかり良くなったらしく、やっと両手が自由に使えるようになったと言う。わたしの方はドリンクバーにもすっかり馴れて、今日は圭介くんと同じコーラを選んだ。
「なんだよ、気になることって」
「大したことじゃないんだけど、その……」
 わたしが言い淀むと、圭介くんはフッと息を漏らす。
「アレ、猫の写真だろ?」
「あっ、そう、猫」
 ウソではない、これも気になっていたことだ。圭介くんは携帯を操作し、思案する。写真を探してくれているらしい。
「一応、撮れはしたんだけど……あんま良いのねーなぁ、この辺ならマシか」
 ほら、と見せてもらったそれにわたしは声をあげた。
「わっ、かわいい!」
 ころんとした黒い猫。デンとお腹を出して伸びをしている。おやつを取ろうとしていたり、動いて残像が写ったりブレているものも多かった。猫は誰かが抱きかかえているらしく、全ての写真に人の手が入り込んでいた。圭介くんの手ではないし涼子さんかな、と思ったけれど違うように見える。
「やっぱさ、あんときのに似てね?」
 このへんとかさぁ、と圭介くんは画面越しに猫の輪郭をなぞった。ぽってりとした頬、可愛がられているのが見て取れた。ちょっと得意顔でこっちを向いているのがまた愛らしい。
「たしかに、ちょっと似てるかも……ふふっ、ネコジャラシ好きなんだ。名前はなんていうの?」
「ペケJ」
「へー、ペケJかぁ」
 圭介くんが名付け親というペケJがピンク色の肉球をこちらに見せているとき、「あ」と圭介くんの声が小さく漏れた。見せたくなかったものをわたしは見てしまったのだ。それが金髪の男の子だったのか、他のことだったのか。圭介くんは何も言わなかったけど、たぶんどっちもだったんじゃないかと思う。わたしは動揺を隠すように画面から視線を逸らした。
「ありがとう、とっても可愛かった。さっきの男の子は友だち? 仲良いいんだね」
「懐かれすぎて困ってるくれぇだけどな」
 圭介くんは携帯を閉じ、グラスに口をつけた。
「……お前、コーラ飲めないんだっけ?」
「うーうん、そんなことないよ」
 視線の先にはたっぷりと入ったコーラがあり、そこでわたしは一度も飲み物に口をつけていなかったことに気づく。グラスを手に取ると水滴が滴り、グラスの底からぷくぷく気泡が湧き上がった。
「で、気になることってホントは何? 写真はメールで送れんだろ」
 鋭い指摘にわたしは言葉に詰まる。
「もちろんムリに言う必要ねぇけど、なんか気になんじゃん」
 その言葉に問い詰めて絶対に聞き出してやろうという気は感じられない。あくまでもわたしの意志を重んじてくれているのだ。

 友達の話を聞いたとき、ふと思った。
 圭介くんは東京卍會、知ってるのかな。
 だけど、考えてみれば不良じゃない友達すら知っている東卍を知らないなんてことがあるはずがない。
 わたしはさっきの写真に映り込んでいた黒い特攻服について、知らないフリをしたほうがいいのか、言ったほうがいいのか決めかねていた。
「ここで話してもいいのかな」
 斜め前のテーブル席の様子が気になる。少し前に派手なグループが入店して騒々しい。圭介くんがいるからまだ座っていられるけれど、一人だったらとっくに退店しているところだ。友達が言ったことが本当で、もし彼らの耳に入って変な因縁をつけられでもしたら、と考えると話す言葉も選んでしまい、わたしは視線を泳がせた。
「……なら、歩きながら話そうぜ。もう遅いし、ついでに送るわ」


 最寄り駅に近づくにつれて繁華街の光は小さくなった。電車で二駅、行き交う人は家路を急いでいて、駅発の路線バスはいつもお客さんがぎゅうぎゅうに乗っている。よくある光景の一部となったわたしたちは、住宅街へ続いている道を縦になって歩いていた。
「家、どっち?」
「あ、コインパーキングが見えるところを右に曲がったらすぐ」
「パーキング……あ、そこか」
 わたしたちの足音は異物であることを象徴するように大きく聞こえ、時折通り過ぎる車のライトが細く長い影を映しては消え、わたしたちの実像を顕にする。
「圭介くんは、……東京卍會と関係があるの?」
 唐突のようで唐突でない。その質問に対し、圭介くんは言い訳もせず「そうだな」とあっさり認めた。
「あ、じつは今日、学校でちょっと話題になって」
「オマエの学校で?」
 うん、と頷くと圭介くんは訝しげな顔をする。
「となりのクラスの女子に東卍に彼氏が居るとか、そういう感じの」
 深い意味はないんだけど、と付け加える。圭介くんは「ふぅん」と流すように返事をして、まだ腑に落ちない顔をしていた。
「圭介くんこそあの電話、ほんとに良かったの?」
「ああ。オレも似たようなモンだし」
 圭介くんの学校でもそういう噂がある、そういうことだろうか。圭介くんは東卍のメンバーで、彼女は私と同じ学校の生徒で、つまり、それって。
「あっ、……その子が圭介くんの、その……彼女ってこと?」
「はァ? んなわけあるかよ」
 圭介くんの語気が強くなり、わたしは焦った。
「だって、そんなふうに聞こえるよ」
「オレはオマエの学校がなんつーとこか知りたかっただけだ。千冬、さっきの金髪がセーラーはどうこう言いやがるから……」
 わたしは見えるようで見えない話を黙って聞いていた。自分で言っておきながら少なからず動揺していたのだ、「圭介くんの彼女」というものに。曖昧な輪郭が削がれて、一挙に駆け上がっていく存在。こういうことはそういう場所で言うものだと思う。こんな商業ビルと住宅の入り混じる殺伐とした道路ではない。

「わ、わたしっ、」

 わたし、ずっと圭介くんのことが——

 その精一杯の想いは大きな排気音に遮られた。鈍い光がだんだんと煌びやかになり、ドコドコドコと空気を叩くそれは、圭介くんの側で停車する。
「あ、やっぱ場地じゃん。隊長が集会サボって何してんだよ?」
 バイクに跨ったまま、口元に縫い傷がある恰幅のいい男の子が話しかけてきた。軽やかな声はわたしを見るなり、あっ、と一気にトーンダウンする。
「なんかオレ、スゲー邪魔な感じだったりする?」
「いや」
「あ、そ?」
 どうも、と丁寧に頭を下げられ、わたしも戸惑いながら会釈した。怖そうなのに見かけによらず親しみやすそうな人だ。彼はわたしたちの顔を交互に見やり、ニヤリとした。
「てか、彼女?」
 圭介くんは眉ひとつ動かさず、わたしを見たまま何も言わない。わたしも返す言葉が見つからずそのままでいたら、さすがに奇妙に感じたようだ。次第に揶揄いの表情が冷めていき、彼はごくりと息を呑んだ。住宅街に響くバイクの音は、わたしたちに妙な緊張感を与え続けた。彼は本当にたまたま通りかかっただけで、特に用事があったわけではなかったらしい。
「あー……じゃあオレ、帰るわ」
「おう」
 逃げ出すように排気音が遠ざかっていき、圭介くんは息をついた。少し不機嫌に見えるのはわたしの勘違いではない。ひやりとした心地に下を向く。
 わたしは圭介くんのなんなんだろう。やっぱりただの知り合いで、同級生。集会、隊長って——



 顔を上げたその瞬間、圭介くんはわたしの唇にキスをした。不意打ちだった。

 恋人になるには告白して、イエス・ノーを知るものだと思っていた。キスをするときはロマンチックがはっきりと目に見えてわかるものだと思っていた。それ以上のことは、今は知らない。
 ただ、わたしのファーストキスは24時間営業の古びたコインパーキングの前で、唐突に失われた。

透明な彼女