Episode5


 テキストをめくる音、シャーペンが問題集を埋める音。わたしの中学最後の夏は、それらが混ざりあった小さな音から始まった。
 個人面談を終え、塾の自習室でノートをまとめているとツインテールの女の子が困った顔をしてやってきた。
「すみません、ここでピンクのノート見ませんでした?」
「あ、ちょっとまってください」
 机の下を探ると誰かが放り込んだ飴の殻、小さな消しゴムと一緒にそれが出てきた。真新しい高校受験テキストを抱えたまま「良かったぁ、ありがとうございます!」とにっこり笑う。そして彼女は身を屈め、遠慮気味に言った。
「あの、さっきあそこのファミレス見てませんでした?」
 さらには、
「もしかして、好きな人がいたりとか」
 ドキッとした。周りに聞こえていないかとハラハラしたが、皆それどころではなく目の前の参考書を熱心に読み込んでいる。フフッとお見通しという顔でわたしを見る彼女の名前は森田由美といった。どうしてそんなことがわかるのかと思えば、彼女も時々同じことをしているという。自習室はどこでも外が見れるわけではなく、一つ道路を挟んだ奥のファミレスが見えるのはロールカーテンと窓の遮光シートが途切れた一番後ろの窓際のみ。「アタシも時々座るんだ」と森田さんは言う。
 ここは好きな人が見えるかもしれないから、と。

 恋の話はどんな時もぐんと距離が縮まるらしい。わたしたちは日頃の勉強のご褒美と称して一緒にクレープを食べることになった。同学年なのに今まで会ったことがないのは受講コースが違っていたためだ。わたしは中高一貫コースを受けているので、高校受験対策コースとは教室が異なる。森田さんは今年は受験があるから大変と嘆いた。
「あ、同い年だし森田さんじゃなくていいよ」
「そっか、じゃあ……ユミちゃん?」
「うん!」
 ユミちゃんはとても気さくでよく喋り、この道中も他校で幼馴染の林田くんについて聴かせてくれた。先日も一緒に塾へ行こうと誘ったらしいが、それどころじゃないと言われたと愚痴をこぼす。ユミちゃんが言うにはその彼は結構本気のケンカに夢中らしく、顔を腫らしているのも珍しくないという。
「昔から弱っちいのに、ほんと意味わかんないんだけどね!」
 そうしていると生地が焼ける甘い香りが漂ってきて、わたしたちの意識はそれに釘付けとなった。ユミちゃんはできたてのチョコバナナを前にあーと大きく口を開け、

「あっ!」

 複数の声が重なり合った。クレープ屋さんを出てすぐ、前から歩いてきた三人組の男の子を見たユミちゃんがわたしに耳打ちする。
「あの人」
 それがさっきまで話していた林田くんのことだと理解するまで時間がかかった。一人は以前バイクに乗って圭介くんに話しかけた人、もう一人は全くの初対面、そして、圭介くんが居た。三人とも夏休みの真っ最中と言わんばかりの自由な格好をしている。
「なに、パーちん知り合い?」
 銀髪の男の子が不思議そうに言う。ということは、この前の男の子が林田くんということだろう。林田くんはわたしの方をちらりと見て、ユミちゃんの方へ向かってずんずん歩いて行く。
「てか、もりユミ! オマエめっちゃうまそうなもん食ってんじゃん」 
 いち早くクレープに目をつけた林田くんにユミちゃんはフフンと自慢たっぷりの顔で言う。
「良いでしょ、奮発した! パーちんも一口食べる?」
「え、マジ?」
 その一方で前を歩くふたりを見つめながら、わたしはまだクレープに手を付けられずにいた。
 隣に銀髪で垂れ目の男の子——三ツ谷くん、というらしい。後ろには圭介くんがいる。彼らがどういう繋がりであるかは聞くまでもなく、緊張した。ユミちゃんは特に気にしておらず、林田くんにクレープを分けている。それを見ると自分だけ食べるわけにもいかない気がして食べられない。それとなく隣を見ると、三ツ谷くんの左耳に目が留まった。ピアス、ヘアカラー、東京卍會。圭介くんの友達とはいえ身構えてしまう。そんなわたしに気づいたのか、三ツ谷くんがははっと笑う。
「オレらのことはいいから早く食べな、ドロドロになっちまう」
 それが思いのほか穏やかで拍子抜けした。圭介くんは、と振り返るとばっちり目が合った。食べろという合図か、無言のまま視線をクレープに向ける。
「てか場地、オマエ女の子睨むなよなぁ」
「あ? べつに睨んでねーよ」

 あの日以降、わたしたちの関係が著しく変化したかと言われると間違いなくノーだった。唯一変わったことといえば、圭介くんが時々ペケJの写真を送ってくるようになったことだ。必ず返信をするけど、長くても1日に3通しか続かない。だからといって圭介くんが面白いと思ってくれるような話題もなく、ペケJが居なかったら相当質素なやりとりになっていたと思う。対して、ユミちゃんは林田くんととても仲が良さそうに見えた。たぶん林田くんもユミちゃんのことを好いている。現に三ツ谷くんはそれに気づいていて「へぇ」と二人が騒ぐ姿を眺めていた。その傍ら、圭介くんは我関せずといった感じで時々携帯をいじって歩いていた。なのでそういうことに興味がないのかもしれないとさえ思った。キスの理由なんて本当に何もなくて「何となく」と言われても違和感はない。だから二人になにも言わないのだと。ひょっとしたら、圭介くんにとってキス一つどうってことなかったのかもしれない。

「あっ」

 わたしの腕と知らない高校生の肘がぶつかり、不安定だったイチゴとクリームがぼとっと落ちる。チョコレートソースと粉糖がかかった、楽しみにしていた部分。フッと声が通り過ぎる。三ツ谷くんが「あのヤロー」と呟いた。上のイチゴがなくなってショックだったのか、笑われたのが嫌だったのか、どうしてこんなに悲しいのか自分でもよくわからない。落ち込んだ顔をごまかすため、わたしはアスファルトを見つめた。こちらの異変に気づいたユミちゃんが駆け寄ってくる。
「どうかした?」
「あ、うーうん、イチゴ落としちゃって」
 早く食べればよかったと笑うわたしをユミちゃんはバカにするでもなく、力強い声で言った。
「また今度食べようよ、そうしよっ!」
 ユミちゃんは林田くんにテッペンのバナナを食べられたと言う。一口あげるとは言ったけどメインを全部食べるなんて信じられないとぷりぷりした。「ねえ、パーちん聞いてる?!」とユミちゃんが投げかける。だけど林田くんは全く気にしておらず、周囲へ視線を巡らせて言った。
「なあ三ツ谷、場地は?」
 はっとしてわたしも姿を探したけれど、どこにも居ない。はぐれた? それともわたしが居るのが嫌になって帰っちゃったとか。悪い想像はどんどん膨らんでいく。
「さあ? そのうち戻るんじゃね」
 三ツ谷くんの言う通り、しばらくして何事もなかったように圭介くんが戻ってきた。そしてその手にはクレープが。圭介くんも食べたかったのかなと思っていたら、それをわたしに突きつけてきた。
「そっちのショボい方、よこせよ」
「あ、えっ、いいよそんな」
 落としたのはわたしの不注意だから、と言っても聞き入れてくれない。
「そんなことどうでもいーんだよ、てか、早く食わねぇと溶ける」
 イチゴとバニラアイス、チョコレートソースと生クリームたっぷりのクレープ。間違えて買っちまった、と圭介くんは言う。戸惑っている間に本当にアイスがどろどろになってしまいそうだった。
「……ありがとう」
 圭介くんはショボいと言ったクレープを大口で頬張り、三ツ谷くんと林田くんは顔を見合わせ、ユミちゃんだけがピンときた顔をして、ニッコリ笑った。



 圭介くんがペケJ以外のことで連絡をくれたのは、それから3日後の夜だった。
 そしてこの頃、わたしは曖昧な境界にわずかながら変化を感じていた。

 夏期講習を終えると誰よりも早く教室を出て、近くのCDショップへ向かう。今日はリリースイベントが開催されているらしくいつも以上に混んでいて、モニターには売出し中のバンドのプロモーションビデオや流行りの楽曲が流れて賑やかだった。何度かフロアを行き来し、曲を試聴する圭介くんを見つけた。だけど集中しているのかわたしに気づいていない。邪魔をしたくなくて、しばらく周囲をウロウロして、それから声をかけた。
「圭介くん」
 圭介くんは試聴機をストップし、ヘッドフォンを外す。
「このバンド好きなの?」
「ん、今知ったばっか」
 今年メジャーデビューしたばかりのアーティストで、手書きのポップにはみっちりと店員さんの紹介文が載っていた。名前を忘れないようにこっそり携帯メールに下書き保存する。
「オマエも何か見る?」
「今日はいいよ」
「じゃ、出るか」
 それから今度はゲームセンターへ立ち寄り、わたしはクレーンゲームの前で立ち止まった。積み上がった動物のミニマスコットのキーホルダーから目が離せない。それに気づいた圭介くんがガラスケースを覗き込む。
「やってみりゃいいじゃん」
「んー、わたしこういうの苦手だから」
 実を言うとゲームセンターは友達とこっそりプリクラを撮りに来て以来、ほとんど遊んだことがない。お小遣いを全額つぎ込んでも取れる気がしないと言うと圭介くんは笑った。そしてポケットから100円を出し、1枚投入口に入れた。ポロンと水色に点滅した操縦ボタンに手を添える。
「2プレイか。3つあるけど……まあ、いっか」
 わたしがその3つがどれに当たるか探している間に、アームが移動する。1体がずるっと滑った。その弾みでストラップが絡み合い、一番手前の2体が落下した。
「すごい、1回で2つも……」
「こんなん小学生のガキでも取れるって」
 やれば分かるからと、言われるがままに残りの1プレイを試してみる。でも圭介くんのように取れそうなものが全然わからない。こういうときはできる人に聞くのが一番だ。
「圭介くんはどれがいいと思う?」
「そうだな、手前のウサギいけんじゃね?」
「え、どのウサギ?」
「茶色のミックス」
「わ、わかった」
「ちょい右の茶色のヤツな」
 茶色、白じゃなくて、茶色の子。途中まではいい感じだったと思う。だけど案の定、アームは何も触れることなく空振りした。あまり見ない光景だったのか圭介くんは唖然とした後、「まぁ、こういうのは馴れだし」と言った。でもアレは操作ミスもある。好きな人が間近に居て、自分を見ていることに気づいてしまったら。つい、ボタンから手を離してしまった。泣きの一回でもう一度試してみたけれど、全くだった。
「仕方ねー、また今度だな」
 圭介くんはニッと笑う。
「うん」
 また今度。
 今日だけじゃなく、また。



 その帰り道。珍しく圭介くんが口ごもり、ちょっと言いにくそうな顔をした。そしてわたしは圭介くんが留年していることを知ったのだった。もちろん驚いたけど、驚いただけで、それで何かが揺らぐこともなかった。
「そうなんだ」
「そうなんだって、他になんか思わねぇのかよ?」
 と、圭介くんが呆れるほどに。
 勉強が苦手ならわたしが教える。悪く言われることがあったとしてもわたしは味方でいつづける。わたしはバッグに付けたマスコットキーホルダーを神社の御守よりも大切に思う。それが惚れた弱みというのなら、きっとそうなのだろう。
「思わないよ。だって、圭介くんは不良だから」
 そう返したわたしに、圭介くんはどこかほっとしたように口元を緩めた。

不器用な人