Episode6


 日曜の正午過ぎ。わたしは圭介くんの家へ向かっていた。団地の階段は、上階へ上がるごとに靴のソールがコツコツ響き、吹き抜けの踊り場からは木枯らしが吹き込み頬の熱を奪っていった。
 誰かに見つかってほしいような、誰にも見つかりたくないような。
 そんな矛盾を抱えたまま、わたしは圭介くんの背中を見ていた。


 圭介くんが勉強を教えてほしいとSOSを出してきた、高校1年の10月。一貫校の高等科へ進学したわたしは以前より少しだけ時間に余裕があったので、圭介くんもそれを見越して言ってきたのだと思う。もちろん、わたしはすぐに承諾した。ただ、予想外なことが一つ。わたしはいつものファミレスでも良かったのだけれど、あの場所は圭介くんには都合が悪いことがあるらしい。ならば、と最初に思い浮かんだのは図書館。しかし頻繁に会話をするのは迷惑になるので不向き。それならとファストフード店も提案したが、ファミレス同様に都合が悪いという。理由を訊ねても「ちょっとな」と濁され、次第に選択肢が消えていく中で、必然的に圭介くんの家に行くことになったのだ。

 5階の一室。圭介くんが玄関を開けると、ギイっと蝶番の擦れた音がした。それは圭介くんとはじめて出会った引っ越しの挨拶の日を思い出させ、あのときの緊張が甦るようだった。
「ただいま。あ? オフクロいねーじゃん」
 圭介くんは何もない三和土を見て靴を脱ぐ。
「上がっていいの?」
 立ち尽くすわたしに、圭介くんは不思議そうな顔をした。
「ん。なんか問題ある?」
 ある。と思うけど、圭介くんはなんともないのだろうか。二人きりだよ、と探るように見るが、圭介くんには伝わらなかったらしい。
「まぁ、上がれよ。狭いけど」
「あ……おじゃまします」
 キッチンに入った圭介くんは冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出し、ステンレス製の調理台に透明のグラスを手際よく2客並べた。かと思えば、思い立ったように戸棚の奥から黒い缶を取り出し、じっとそれを見ている。よく見るとちょっと良い紅茶の缶だ。
「あっ、わたし冷たいのでも平気だよ」
 直感だが、たぶんそれは開けてはいけないものだ。涼子さんの怒った顔が目に浮かぶ。
「そう?」
「うん、ありがとう。圭介くん、これ良かったらお母さんと。マドレーヌ」
 友達の家へ行く時は必ずお菓子を持たされる。わたしは今日のことを秘密にしていて、シンプルに「友達の家で勉強してくる」と伝えただけで詳細は伏せていた。友達の中には全てオープンにしている子もいるけど、わたしはまだ言えていない。お母さんに話したらどんな反応をされるか想像がつかなかったし、一番は彼氏という言葉が自分の口から飛び出すのが恥ずかしかった。なので、今日は急いでいるふりをして自分で買ってきた。
「そういや菓子もねーわ。ありがとな、それ食っていいぜ」
 食べていいと言われてもさすがにすぐには食べられない。紙袋を抱えたままキッチンで右往左往していると、
「じゃあ、その辺に置いといて」
「わかった」
 その辺。テーブルの蜜柑と食パン袋に添えるように、それを置いた。
「部屋はこっちな」
 キッチンを出てすぐ。廊下を挟んだ隣の和室が圭介くんの自室だった。麦茶を両手に抱えたまま圭介くんは「ちょっとゴチャついてっけど」と器用に指先で襖を開ける。スパンと開いたそれに思わず視線を泳がせたわたしが過敏に思えるほどに潔い。
「しつれいします……」
「どーぞ。」
 正直、男の子の部屋はもっと散らかっているものだと思っていたけれど、圭介くんの場合は違っていた。洋服もきれいに整頓されているし、押入れを解放したベッドは掛布団もきちんと畳まれていて、圭介くんの言うゴチャつきなんて感じない。強いて言うなら、部屋の角にひっそりと少年漫画が積み上がっているくらいなもの。おそらくわたしが来るから片付けたのではなく、普段からこうなのだろう。なんとなく、そう思った。圭介くんは綺麗好きだ。
「椅子足りねーし、テーブルでいいよな?」
「うん」
 部屋の中央に出された折り畳みテーブル。圭介くんが壁際の学習机に飲み物を避難させる。いろんなことを話したくなるのを抑え、わたしはバッグから譲ろうと思っていた参考書を取り出した。今日は遊びではなく勉強が第一の目的だ。
「さっそくだけど、あとどのくらい点数取らなきゃいけないの?」
 志望校の合格ラインを訊ねると圭介くんは途端に息を詰まらせた。
「にぃ……」
「2点?」
「20」
 このときの圭介くんは眉間のシワとは裏腹に、すごく恥ずかしそうにも見えたし、申し訳なさそうにも見えた。圭介くんの話によればいつもクラスメイトや千冬くんが教えてくれるらしいのだが、特に千冬くんは「場地さんのためなら」と自分の勉強もそこそこに付きっきりになっているという。けれども、いつまでもそうしていられない。
「このままだとアイツまでヤベぇ」
「そうだよね、受験生だもんね」
 圭介くんは共倒れを懸念していた。まだ会ったことはないけれど、圭介くんから聞く千冬くんの話はいつもハラハラした。今が危機的であることは明らかで、ハラハラどころでは済まなくなってしまう。
「暗記するところはわかる?」
 圭介くんの顔がだんだんと無になっていく。でもこれくらいでめげるわけにはいかない。ここはわたしの塾通いが活かされるとき。勉強法だけはしっかり染み付いていると自負している。
「一からやるのは大変だと思って、まとめてきたの」
 わたしは自信たっぷりの秘密のノートを広げた。だけど、ちょっとやりすぎたかもしれない。資料のコピーやシールで着膨れしたノートは見た目以上に重く見える。とても勉強が苦手な人へ贈る代物ではなく、バサッという紙の音は気力まで吹き飛ばしてしまいそう。急に恥ずかしくなって「なあ、」と圭介くんを遮ってしまった。
「今は圭介くんが頑張らなきゃいけないときでしょ? だからわたしも一緒に……気持ちの問題というか。大変なことはなるべく一緒がいいと思うから、とにかくがんばろうって思って、いつのまにかこんなになっちゃって……」
 しどろもどろになりながら弁解するわたしに、圭介くんは黙ったままなんだか感情の読めない顔をする。
「てか、コレもらっていい?」
「えっ、うん、もちろん」
「すげー助かるわ」
「ほんとに?」
「こんなことでウソついてどうすんだよ」
 ノートをめくるたびに圭介くんの眉間のシワが濃くなっていき、密かに心配した。




 東京卍會が解散したのは昨年。不良のチームはずっと存続するものではなく、喧嘩に負ければそれまで。トップにいても総長の一声でどうにでもなってしまうものらしい。圭介くんの昔からの友達は高校へ進学した人もいれば職に就いた人もいて、それぞれと言っていた。三ツ谷くんはデザインの勉強を頑張っていて、林田くんは進学せずに不動産業を営んでいるお父さんの下で働いているとユミちゃんから聞いた。またユミちゃんは志望校に合格し、高校生活を存分に楽しんでいる。ユミちゃんが3月で塾を辞めてしまったこともあり、以前ほど会う機会は減ってしまったが、電話やメールは続いていて他校を活かして色んな話をして盛り上がった。そのたびに「バジくんとはどうなの?」としつこく訊かれる。だからといって、ユミちゃん自身も特別に変化があるわけでもなく「ユミちゃんは?」と、この手の話になるとわたしたちは途端にぐずぐずになった。

 そして先日、圭介くんの家へ行く話をするとユミちゃんは妙に畏まってモジモジし、『あのね、ちゃんって女子校だから知らないかもしれないから……あっ、べつにバジくんがどうこうって話じゃないから』と長い前振りをして、あー、えー、とかなりの時間、勿体ぶった。
『あのね、男子の本棚は見ちゃダメ。ほんと悪いこと言わないから』
 なんでも、ユミちゃんはそれがきっかけで林田くんと一ヶ月もの間、口を利かなかったというのだ。理由を訊いてもそのうち話すと口を閉ざすので、わたしはできるだけ窓辺の本棚が視界に入らないように注意を払った。わたしと圭介くんが一ヶ月も口を利かなかったら、圭介くんは林田くんのように理由も分からずに焦って謝り倒すことはしないんじゃないかと思う。あるとするならそれは自然消滅。そこでふと目に付いたハンガーラックに黒い特攻服が下がっていることに気づいたのだった。

 わたしと圭介くんのことを知っているのはユミちゃんを除いて中学から一緒の友達一人のみ。友達に知られたきっかけは街で圭介くんといるところを見られたこと。彼女は「なんとなく彼氏いるんだろうなぁって思ってたけど」と言った。ただ、圭介くんが訳あって留年していること、その時の生真面目な制服姿が相まって彼のことを真面目な病弱男子と思い込んでいる。
 また、圭介くんは圭介くんでわたしに不良っぽいことをあまり見せようとせず、関わりのあることはほとんど話してくれなかった。なので友達に東卍トーマンについて何か訊かれたとしても答えようがないのだけれど、たった一度だけわたしに見せてくれたことがある。それは東京卍會が解散した日の夜。いつもの公園に呼び出され向かうと、黒い特攻服を着た圭介くんがいた。あまりにも突然で、唖然として固まっていると圭介くんはぶっきらぼうな声でこう言った。
『もう着ることもねーし、あとで見たいって言われても困っから』
 わたしは相変わらず不良のアレコレについてはわからないし、集団で居られるとやっぱり怖い。もしも圭介くんが全然知らない男の子だったら思い切り避けていただろう。眉間にシワを寄せて真剣にノートを書き起こす姿も知らないまま、特攻服姿がかっこいいと思うこともなかった。
 英単語帳を見るふりをしながら、わたしは圭介くんを盗み見た。
 整ったきれいな横顔が大人びて見え、ヤンチャな顔で笑っている壁側の写真が余計に幼く見えた。その隣の集合写真は圭介くんがどこにいるのかわからなかった。映っている人はみんな不良。あまりジロジロ見るのは不躾と思いつつ、怖いもの見たさなようなものが先立って目が離せない。
「見てもつまんねーだろ、ヤローばっかだし」
「あ、ごめん」
「ちょっと休憩」
 メガネを取り、圭介くんははぁ〜と大きく伸びをした。
「……楽しいよ、知らない人ばっかりで新鮮」
 すると圭介くんは立ち上がり、写真立てを持って座り直す。それから「ここに三ツ谷とパー……えーと、林田はわかるよな」「で、これが千冬だろ、あとこっちがマイキー」と、薄いクリーム色の髪の男の子を指さした。
「マイキーくんって、昔話してくれた人?」
 圭介くんの友達で、良い人で、ちょっとわがまま。
「あー、よく覚えてんな」
 圭介くんは意外そうな口ぶりでわたしを見る。蹴り倒す、なんて言っていたからガタイが良くてもっと怖い人だと思っていた。想像と随分違う。
「なんか、かわいい顔してるね」
「それ、ぜったい本人に言うなよ。一応総長だからな。あ、元か」
「そ……えっ!」
 思わず両手で口元を覆った。圭介くんはククッと喉を鳴らして笑う。
 それから一人ずつ説明してくれて、さすがに全員は覚えられなかったけど、それでも面倒がらずに話してくれたことが嬉しかった。嬉しくて、楽しくて、わたしは油断していたのだ。クスクス笑っていると玄関のチャイムが鳴った。弾かれたように姿勢を正し、わたしは圭介くんを凝視した。そうしていると、もう一度チャイムが鳴る。圭介くんのお母さん――と思ったけれど、涼子さんは鍵を持っているだろうから来客になる。圭介くんは少し面倒そうな顔をして玄関先へ向かった。

 スぅ、スミマセンしたっ!――

 戻ってきた圭介くんと同じくして、少し開いた窓からガンガンガンとものすごい速さで階段を駆け下りる音が聞こえたのだった。


「なんか知らねぇけど勝手に帰ったわ」
 圭介くんは何事もなかったように着座し、テーブルの下にあった携帯をちらりと見て、再びノートへ視線を落とした。その様子からわたしはてっきり訪問販売か何かを追い返したのだと思った。
「なんて言ったの?」
「取り込み中とか、そんな感じ」
 あんなに素早くお断りできるなら参考にしたい、そう思っていたのに。
 まさか、それが千冬くんだったなんて。

知らないこと