Episode7


 圭介くんの高校入学はわたしにとって特別で、きっとわたしたちの関係も変わっていく、今よりももっと大人になるんだ、そう思っていた。
 しかし、それはなんの前触れもなく訪れた。


「あのさ、しばらく会うのやめよう」
 自動販売機で買ったアイスを食べながら、渋谷のスクランブル交差点を通り過ぎたとき、圭介くんは次のデート先を探すような口調でそう言った。
 いつ、どこでそんな話になったのか。思い当たる節を探しながら戸惑うわたしに、圭介くんは淡々と続ける。
「なんだっけ、ガイブ受験? するって言ってたじゃん」
 だからさ、と。

 それはまるで、高校2年のはじまりに配られたA4のコピー用紙のようにさらりとしていた。進級を祝った時間は数分にも満たず、「さっそくですけども」と副担任の手によって配られた、進路希望調査。途端に興ざめした女子生徒の溜息が春満開のぽかぽか陽気を乱し、まるで暗黒時代の幕開けのような空気が漂った。
 内部進学、外部進学、その他。
 5月に入るとあっという間に三者面談へと繋がり、わたしの世界は瞬く間にそれらに侵略されていった。この世の「もったいない」という言葉は物だけに限らず様々なことへ影響を及ぼすらしい。「お母さん。ここだけの話ですが、もったいないと思いますよ」と担任の誘い文句により一層その侵略は深まっていった。というのも、内部の大学は学部に限りがある。専門性を求めるなら外部一択、やりたいことを追求するなら尚更。そんな理由もあって、受験を考えることは特別でもなんでもないのだが「挑戦してみない?」とクラスメイトの7割が見たであろうパンフレットを4、5冊手渡され、わたしのバッグはすっかり重くなった。

 そして同じ頃、わたしは女子の変わり身の速さを目の当たりにする。中学では東京卍會が、不良が、と噂話に熱中していたクラスメイトはいつしか清純を装い、「今の彼氏は高3までかなぁ」と耳を疑うような本音を漏らすようになった。もちろんそれはごく一部ではあるが、今までとは様子が違うことは明らかで、代わりに有名進学校の男子の噂が頻繁に流れた。それにプラスして「大学生になったら」「社会人になったら」と先まで続き、この手の話はわたしの理解に及ばないところまで進んでいった。
 なので、わたしはもっと注視すべきだったのだ。
 例えば、お母さんが頻繁に友達の兄の話をするようになったこと、その友達の彼氏が進学校に通っていることもそう。わたしは塾終わりの遅い夕食を食べながら呑気な声で「へー、すごいね」と返事をするに留まっていた。

 とはいえ、自分にとって楽しい時間も見る目が変われば無駄なお遊びに映ることは理解できる。でもわたしなりに頑張っているのに「遊んでる暇なんてあるの?」と叱られるのはちょっと不服だ。そのことで先日お母さんと喧嘩になり、それを圭介くんに愚痴ってしまった。しかし圭介くんが言うには「もういい!」とお菓子を持って一人で部屋に籠もってむくれているのは喧嘩のうちに入らないらしい。わたしは年1、2位を争う事件として話したつもりだったけど、圭介くんは「オマエも大変だな」と笑っていた。

 そんなこともあって、おそらく、たぶんだけど。圭介くんは心配してくれたのだと思う。なんだかんだで圭介くんはそういうところがある。昨年の冬、わたしが熱を出して一週間学校を休んでいると知ったときは、今日は雨とか晴れとか天気の知らせが届き、メールの文章も3行から4行に増えて、7日目には初めて下へ続くスクロールボタンを押した。その内容が事細かに綴られたペケJの日記のようなメールであったとしても、わたしは嬉しかった。
 きっと今回の彼の言動もその一つだと思う。受験の大変さを圭介くんは身をもって知っているから余計に。だけどなぜか、頭の中を整理してきちんと順序立てわかりやすく話すということが途端に難しくなり、気づいたときにはぽろりとこぼしていた。
「でも、あと1年しかないんだよ?」
 どうにもならない不満を訴えたところで圭介くんが困るだけなのに。今この瞬間も貴重な高校生活は消費されつづけていて、おまけにその言い方が本当にかわいくない。びっくりするくらい無愛想な声が出た。恐る恐る隣を見ると、圭介くんは​​そっぽを向いたまま言う。
「高校だけがすべてじゃねーだろ」
 もちろん、そんなことはわかってる。それでもわたしは少しも無駄にしたくなかった。
「今は今だよ」
 知らない間に意固地になっていたんだと思う。わたしは圭介くんと高校生活を送ることを、ずっと楽しみにしていたから。もっと素直に伝えれば少しは違っていたのかもしれないけれど、言葉がまとまらない。すると圭介くんはじっとわたしを見た。
「オマエさ、最近ちゃんと寝てる?」
「うん、寝てるよ」
「なら、今日何回あくびしてたか知ってるか?」
「あくびなんて、……」
 したかどうか、無意識すぎてわからなかった。
 高校は中学よりもずっとシビアだ。予習復習は当たり前、近頃は毎日のように小テストが行われるので夜ふかしは避けられない。もちろん、それを圭介くんに話したことはない。
「じゃあ、そのね……」
「ん?」
「じゃあ、っていうのも変だけど……メールは?」
 仮に会えないとしても、せめてメールくらい。いくら勉強が忙しくてもそれくらいの時間は確保できる、確保する。
 すると圭介くんは少し考えた顔をして、服のポケットから携帯を取り出し、
「ごめん、壊れたからムリ」
 と、躊躇いもせずにそれを真っ二つにへし折った。これにはわたしも言葉が出てこず、真逆に曲がり配線コードが剥き出しになった二つ折りの携帯を見つめたままだった。その衝撃からだろうか、わたしの意志はじわじわ怖気づいていき、とうとう観念して「……わかった」と言ったとき。圭介くんの眉が少しだけ動いたように見えた。でも気のせいとも思った。睡眠を欲した頭はあまりにもお粗末だ。

『え、まって。それ……』
 とても言いにくいんだけど、と言ってくれたユミちゃんは親切だと思う。
「え、いいよ、なに? 言ってよ?」
『それ……ふられたりとかしてない、よね?』
 電話で指摘されるまで気づかなかった、というよりも認めたくなかったのかもしれない。やがて無言になったわたしをユミちゃんは力の限り励ましてくれて、これ以上は何もできないというところで『にしてもだよ? ちょっといきなりすぎるよね。それにケータイ壊すなんて……あっ、パーちんに聞けば何かわかるかも!』と電話を切った。てっきりすぐに電話がくると思っていたけど、その折り返しはなかなか来なかった。2週間あまり経ってかかってきたユミちゃんの電話の声は今までで一番控えめだった。
『パーちんは『バジはバジだし』だって。ゴメン、こんなんじゃわかんないよね』
 それから数ヶ月後のある日、わたしは圭介くんと再会した。それはいつものファミレスや公園でもなく、予期せぬ場所で。




「失礼しまーす」

 友達が面白半分で点けた七色のミラーボールが、彼の顔を不規則に照らした。
 このとき、わたしは流行りのバラードを熱唱し続ける男の子に向け、外れたリズムでタンブリンを振っていた。友達に「たまには息抜きしよう」とカラオケに誘われて付いてきたものの、この状況は全く想定していない。男の子がいるなんて聞いていないし、言われていたら行かなかった。そんな状態でイキイキと楽しめるはずもなく、友達は半ば無理やりわたしの手にタンブリンを握らせて場を保たせようとした。そこへ店員さんが、圭介くんが入ってきたのだ。

 握力の無くなったわたしの手からタンブリンが滑り落ちる。しかもそれは圭介くんの足元に着地した。この状況に理解が追いつかないわたしと違い、圭介くんはすごく冷静だった。すぐにタンブリンを拾い上げ、受け取る気配がないと知るなりそれをソファーの上へ乗せる。そして注文していた《カリカリ☆山盛りフライドポテト》をテーブルに置いて、やっと扉が閉まった。
 人違いじゃない、絶対に圭介くんだった。
 「え、イケメン」と友人の言葉にどきっとし、黙って扉を見つめていたわたしは慌てて部屋を飛び出したのだった。

「圭介くん!」

 無視されるかも。心配するわたしをよそに、圭介くんは思いの外あっさり反転した。
「あ、ケチャップ」
「ケチャップ?」
「ポテトに乗せるの忘れた。悪りぃ、すぐ持っていくから」
「ねえ、圭介くんここでアルバイトしてるの?」
「え、うん?」
 見ればわかるだろ、と言わんばかりの顔をされ、あまりにも馬鹿げた質問とわかり顔が熱くなる。いつもの調子で「オマエの方こそ何してんだよ?」そう言ってくれたほうが気が楽なのに、圭介くんは何も言わない。すると向かい側から大学生らしき人がやってきて「ちょい、おにーさん! 16って、右? 部屋わかんなくなっちゃってさー」とケラケラ笑っている。かなりお酒が入っているらしく、壁にぶつかりながら歩いていて、いつガラス扉に激突するかとヒヤヒヤした。
「そうっすね」
 と、圭介くんは営業スマイルで返事をする。実際にその人が向かったのは逆の左側だったけれど、圭介くんはどうでもよさそうだった。「えーっと?……あ、ケチャップ」と、フロントに向かって歩き出す。それ以降、圭介くんはずっと背を向けていて、わたしは話しかけるのを躊躇った。このまま従業員室へ入ってしまったら困る。
「圭介くん、バイトって何時に終わ――」
 話を終える前に自動ドアが開閉し、金髪の女の子が手を振った。もちろんわたしではなく、圭介くんへ向けて。
「おー、ホントにいる。やっほー、ちゃんとがんばってる?」
 へへっと彼女は子どものように笑った。
「馬鹿にしすぎだろ」
「だってこの前マスタード忘れたってケンちゃん言ってたし。またなんか忘れたんじゃないの?」
「うっせ。チャカしに来たんなら帰れよな」
 忙しいんだよ、と圭介くんが言っても彼女はおかまいなし。ズンズン圭介くんの前にやってきて、ふんっと唇を尖らせた。
「ウチだって来たくて来たわけじゃないもん」
 圭介くんは眉根を寄せるだけで、言い返すこともない。
「いい加減ケータイ買ったら? ココくんから借りれば一発解決じゃん。あの人バイトのお金たくさん持ってるんでしょ?」
「バーカ。あんなボッタクリよっぽどのアホしか借りねーっての。そもそもオレはそういうの好きじゃねぇんだよ」
「ふーん。昔から思ってたけど、ケースケってそういうとこあるよね。おバカなんだか真面目なんだか」
「はぁ……で、用件なに?」
 こんなにも呑まれる圭介くんを初めてみたこともあるけれど、みるからに親しそうな二人の空気にわたしはすっかり当てられてしまった。
 足が長くてスラリとして、金髪。唇をぷうっと膨らませ、憎まれ口をたたいてもかわいく見えて。わたしにないものが全部揃っているような女の子。圭介くんの学校にはあんなふうにかわいい子がたくさんいるのかもしれない。今まで気にしなかったことが次々と出てきて消えなかった。
「んー、その前にお客さん」
 ほら、と圭介くんに視線を送るその子と視線がかち合う。

「け……ケチャップ、もう大丈夫です」

 駆け足で部屋に戻ったわたしは椅子に座り、圭介くんが拾ってくれたタンブリンを膝の上に乗せて、みんながほとんど手を付けていないポテトフライを無心に食べ続けた。心配する友達の呼びかけに曖昧に頷き、ただ黙々と。それから心の中で目一杯の悪態をつこうとした。そしたらこの状況にも納得できると思ったからだ。だけどいくら考えても圭介くんを罵る言葉はでなかった。このポテトフライにしても、たくさん残っていたら圭介くんに悪いと思って食べている。本当はケチャップもほしいし、カラオケは知らない男の子と来ても全然楽しくない。バラードだって少しも胸に響かない。
 いつだって圭介くんの味方でいると決めたはずなのに。
 自分がただ腹立たしくて、どうしようもなかった。

嫌いになれない