Episode8



「コンビニもいいけど、やっぱり本物は違うわ。あ、遠慮しないで食べな?」
「はっ、はい」
 長いスプーンを手に取って、わたしはチョコレートクリームを頬張る。
「でも、まさか本当にちゃんだったとはねー」
 ははっと笑う涼子さん。圭介くんとそっくりの笑顔を向けられて、わたしは密かに動揺していた。

 圭介くんと会わなくなって数年、わたしの周囲も大きく変化した。一つは第一志望の大学に合格し、一人暮らしをはじめたこと。去年の夏、突然「なんでも経験よ」と放任主義へ舵を切ったお母さんは、買い物に出かけるような身軽さで単身赴任のお父さんの元に居着いてしまった。ちょっと早めの夫婦水入らずと言っているが、なんだかんだで月2回は東京に戻る生活をしている。そしてもう一つは、駅ナカのお菓子売り場でアルバイトをはじめたこと。週3回、わたしはかわいいお菓子のパッケージに囲まれて働いている。
 大学生活、アルバイトと一人暮らし。はじめて尽くしの大学生活も二年目を過ぎようとしている頃、バイト先でわたしのネームプレートをじっと見るお客さんがいた。それが圭介くんのお母さん、涼子さんだった。ちょうど上がる時間と重なってカフェに誘われ、なぜかこうしてパフェを食べている。なので、わたしが涼子さんに質問したのは自然な流れだった。

「圭介くん、今どうしてるんですか?」
 わたしは余計なことを言わないようにスプーンを口に運び入れた。
「あの子さ、今家出ていないのよ」
「んっ、そうなんですか?」
「昔からの友達とルームシェアするとか言ってね」
「ルームシェア……」
 自由なもんよ、と涼子さんは言う。実を言えば今までに何度かあの団地へ行けば圭介くんに会えるんじゃないかと考えた。復縁というか、そもそも別れているのか付き合っているのか。考えに考え、結局実行に移すまでに至らなかった。
「どうかした?」
「あ、いえ」
 驚きはそれだけでない。勉強が苦手な圭介くんが大学に進学していた。たぶん相当勉強したんだと思う。未だに信じられないと言う涼子さんは嬉しさを隠しきれていない。
 その他にも涼子さんから聞く圭介くんの話はどれも新鮮で大人びて聞こえた。数年前にカラオケで再会したとき。あの頃から圭介くんはアルバイトをしているらしい。地に足をつけ、しっかり自立している。わたしも一人暮らしをしているけれど、圭介くんのそれとは別物のように思える。ルームシェアというのも、実は好きな人と同棲だったりして。
「まぁ、そのうち遊びにおいでよ。昔からウチに来るのは男ばっかで華がないからさ」
 何も知らない涼子さんはにっこり微笑んだ。





「じゃあまずは、……カンパイッ!」

 大衆居酒屋の半個室に不慣れな掛け声が湧き上がる。
 二十歳を迎えた途端、お酒の席に誘われるようになり、わたしは合コンにも行くようになった。何事も経験というのなら行かないのはもったいない。といっても、それらに関してはまだ片手に余るほどしか経験がなく、楽しさもあまりわからない。初回はおしゃれなイタリアンですごく緊張して、何を話したかわからないまま終わってしまった。その点、今日はリラックスしていられるのでいくらかマシだ。他大学に通っていると言った男の子の格好もカジュアルで親しみがあるし、変に賢そうな話し方もしない。当然、自慢げにT大の友達の話もしてこない。それもあって、わたしはずいぶん気を抜いていた。

「ごめんねー! もうすぐ来るから」

 3対3で始まるはずだったそれは3対2のまま始まって、男の子の数が足りていない。もう一人の彼はアルバイトが長引いているらしく、端っこに座っていたわたしはさっそく一人だけあぶれていた。あの時計が9時になったら帰ろうかな、早くもそんな事を考えている。でも、わたしが帰ってしまったら相手方の男の子が気の毒なことになってしまうだろう。横並びの掘りごたつは、近からず遠からず。はじめこそ順当に回っていた会話も飲み物が2杯3杯と増えるに連れて少なくなり、わたしは次第に手持ち無沙汰となっていった。
 
「あ、来た! こっちこっち!」

 間仕切りの簾をくぐり、幹事の男子が通路へ身を乗り出して手招きする。「来た意味あんの?」「あるある、めっちゃ……で――」そんな話し声と人影を感じて、急に喉が渇いたわたしは減りの悪いカシスオレンジを口に含んだ。
「待たせてスミマセン」
 棒読みの声がわたしの頭上に舞い降り、奥から順に巡ったその視線はわたしの前でピタリと止まる。
 すっと息を吸ったものの、声にならない。慣れないアルコールは体中の血液が逆流するような感覚がする。「さ、自己紹介!」と幹事が述べるが、そのほとんどを仲間内で語り尽くしてしまい、わたしの目の前には『獣医学部1年、同い年でフットサルサークル所属! ときどきヤンチャが顔を出す、場地圭介くん!!』が腰を下ろした。
「余計なモン付けるなって」
 と、本人が嫌そうにしても完全に無視したまま進行していく。

 これだけで既に頭が真っ白だったのに、女性陣も再度自己紹介しようということになり、わたしの友達二人が余計なことを口走る。
「こちらは年季が入った失恋女子、ちゃんです!」
 全身から汗が吹き出した気がした。こうなってくると圭介くんの顔をまともに見るのは不可能。視線は泳ぎに泳いだ。やっとのことで着地点を自分の箸袋と決めた頃には、「ヤンチャってどういうこと?」「じつはこいつトーマンの元幹部でさ」男の子たちは意気揚々と圭介くんの肩を組んで話す。どうやら彼らはそれを常套句にこの場を盛り上げるのが鉄板らしい。ただ、本当のところは彼らは何も知らないんじゃないかと思う。
「ねー場地くん、なんか武勇伝聞かせてよ」
 わたしの友達が掘り下げようとするも、
「そんなもんねぇよ、コイツら適当に言いすぎなだけだから」
 圭介くんはのらりくらり避け続けた。それからは口数少なく新たに注文した串焼きを食べながら乾杯のビールを飲んでいる。その一方で、わたしは数年前に見た集合写真を鮮明に思い出していた。
 すっかり忘れたはずの麦茶の味、日焼けした畳の香り、少し開けた窓際のカーテンが揺れる気配すらも――。
 この状況をやり過ごすために、わたしは軟骨の唐揚げの咀嚼音で頭の中をいっぱいにすると決めた。だけど軟骨があまりにも硬い。騒がしい店内の隙間を縫うように、会話が流れ込んでくる。


「場地くんは飲み物どれにする?」
「酒以外」
「飲まないの?」
「明日もバイトあるから」

「バイトってかけもち?」
「んー、まあ」
「へ〜、頑張りやなんだ。そしたらソフトドリンクはこっちのジンジャーと—— 」

「場地くんはバイト何してるの?」
「居酒屋とペットショップ」
「ペットって、グッピーとかカクレクマノミとか?」
「まぁ、熱帯魚もかわいいかもな」
「あれ、違った? 爬虫類はどう?」
「ちがう」
「猛禽類、じゃなさそうだから……わかったアレだ、高級カブトムシ!」


 あり得る〜、と男の子たちも乗っかり、いつしか圭介くんはおしぼりを握りしめていた。
「ぜんぜん違げぇし。つーか、お前らは知ってるだろうがッ」
 今にもそれを投げつけそうな圭介くんにどっと笑い声が上がる。わたしがしばらく黙っていると幹事の男の子が張り切った声で言った。
「怖がらないであげて! こう見えていいヤツでさ、とりあえず連絡先交換しよ、ね!」
 イイじゃんと乗せられて断れるはずもなく、隣から早く早くと急かされながら、わたしは携帯を向き合わせることになった。
「あ゛っ!」
 勝手にポケットから携帯を抜き取られた圭介くんはとんだ災難だろう。
 ――新しい携帯、さすがに買うよね。
 そうだそうだ、とざわついた自分を納得させる。
「えっと、わたしが送りますね」
 一方的に合わせたまま、圭介くんの携帯の通知が赤色に光った。きっと圭介くんの携帯にわたしの名前が出ているはずだ。

 あくまでも、平常心。
 きっとすごく面倒そうにしてるんだろうな。

 そんなことを思いながら様子を窺うと、意外にも圭介くんはまんざらでもない様子で、携帯を閉じるとすぐにポケットに仕舞ったのだった。それは圭介くんの友達が「バジくん。女の子にはやさしく、やさーしくね?」と圭介くんの手を擦っているからかもしれないし、他の理由だったかもしれない。
「テメェ、それ以上くっつくとマジでぶん殴んぞ」
「と、こういうところが彼の魅力です! あ、トーマンはウソだから信じないでね?」
 再び卓上が笑いに包まれる。ウソも何も全部圭介くんなんだけど、このことはみんなには伝わらない。
 ――んっ。
 圭介くんはわたしにだけに見えるような角度でニヤリと八重歯をのぞかせ、コーラを一口含んだのだった。



 終盤はもはや合コンではなく普通の飲み会になってしまったけれど、楽しい時間だった。二軒目のカラオケの話になったとき、4人は店の外で佇むわたしたちに気づかないまま人通りに紛れていった。こちらも離れていく彼らを追いかけようとしなかった。自然に足を止めたまま、みんなが完全に見えなくなった後にわたしと圭介くんは何も言わずに歩きだした。
 ―― うわ、つま先傷んでる。
 引っかき傷の付いたパンプスが無性に気になる。すると今度は服も気になりだしてスプリングコートに包まった。こんなことならもっとオシャレするんだった。
「てかさ、今日寒くね? 3月ってこんなだったっけ」
 圭介くんは黒いブルゾンのポケットに手を入れ、肩をすくめる。
「コーヒー、……圭介くんは明日早いの?」
 カフェインはやめた方がいいか。そう考えるわたしを見透かすように圭介くんはくすっと笑う。
「そんなにガキじゃねぇよ。なんならもう一件寄ってもいいくらいだし」
 たまらず圭介くんの顔を覗き込んだ。それが意表を突いたらしく、圭介くんは慌てて視線を逸らし「オマエも寒そうにしてっからさ」と、ぼそっと呟く。
「どっか、入ろうか」
「っ、おう。つっても、どこ行くかな」

 圭介くんが歩み出したのを見て、わたしも続く。
 コツコツ、カツカツ
 細かなアスファルトの音が騒がしい夜道に溶け込んでいく。

「……圭介くんも、ああいうの行くんだね」
「幹事にノートの借りがあんだよ」
「そういうこと?」
「そういうこと」
「わたしはね、」
「オマエは付き合いだろ? あとは好奇心とかなんでも経験とか言ってさ」
「なんでわかるの?」
「そりゃ……慣れてないのバレバレだし、特に好きそうでもないし、誰でも気づくって」
「圭介くんは小慣れてたよね」
「だからオレは、」
「わかってるよ、ノートでしょ?」
 あまりにもらしい理由に笑みをこぼすと、圭介くんは眉を潜めた。
「こっちは切実なんだよ」
 おまけに「1限に必修はクソ」なんて言いだす。でも、圭介くんの気持ちはわからなくもない。特に今日のように遅い日は。きっと誰でもそうだと思いたい。
「ふふっ、ごめん。あ! あのお店開いてるよ、カフェバーみたい」

 薄手の上着が頼りない、3月上旬の夜。わたしたちは肩を丸めて、光の方へ駆けて行った。

 そして二人して温かいコーヒーを頼んだ。おすすめされたカクテルを断ったのは、心のどこかに隠れているものを、なにかの拍子に誤って壊さないようにしていたんじゃないかと思う。深夜のカフェバーは、わたしにはちょっと場違いに見えて、圭介くんはわたしよりも馴染んで見えた。喫煙OKのカウンターはタバコの香りが漂っていて、あまり長居せずに店を出た。わたしはもちろん、圭介くんも嗜まないらしい。何度か友達に勧められたこともあったようだけど「動物に触るのもあるけど、アレの良さがイマイチわかんねぇ」とのことだった。

 せっかく温まったのに冷めるのは早い。まだまだ冬の残り香は遠のいてくれない。圭介くんは不意に立ち止まり、わたしに言った。
「そういえば家って?」
「同じ」
「じゃあ、こっちでいいな」
 圭介くんはルームシェアしてるんでしょ?
 なぜかそれを言う気にはなれず、わたしたちは中学生のあのときよりも早い足取りでガード下を過ぎていった。
 必要最低限の会話を交わし、あっという間に最寄り駅へ着く。
「この辺あんまり変わらないよな」
「住宅街だからね。この前もマンションが建ったよ」
「そんな土地あったっけ?」
「……パーキングが無くなったから。その代わり地下にカーシェアがあるんだって」
 1年前、わたしの思い出の古びたパーキングは宅地開発で消えてしまった。本格的に地盤調査が入り、ショベルカーが来たときはちょっとショックだった。ここには何の思い入れも存在しない、そう言わんばかりにあっという間にアスファストが壊されていく様を思い出す。
「圭介くんは車の免許もってるの?」
「え、なに?」
「車、運転する? わたしはまだ何も持ってないんだよね、身分証にもなるし、取ったほうがいいのかなって友達とも話してて」
「あー、バイクなら持ってるけど。たしかにあったら便利かもな。なあ、家ここだろ?」
 気がつけば、いつの間にかパーキング跡地のマンションも通り過ぎていた。
「そういや今何時……げっ、とっくに12時過ぎてんじゃん」
 時刻は1時に近い。わたしの携帯の充電も底をつきそうで、とっさに言った。
「よかったら寄っていく? わたし、今一人だから」
「は? 一人?」
「あっ、特に何かあったわけじゃないよ。お母さんがお父さんの方に、北海道へ行っちゃって。わたしは大学があるから残ってる」
「そういうこともあるのか、なんかビビったじゃん」
「今からでもお茶とか出せるし……家に居ても、わたしは構わないんだけど」
 目一杯、ドキドキした。けれど、小声になったわたしへ圭介くんが言うのは早かった。
「なら尚更行けねぇわ。オレ、オマエが家に入るまでここに居るからさ。オートロックでも用心しろよ」
「あ、……うん」

 じゃあね。さよなら。おやすみ。
 それらを早口で言い終えて、わたしは駆け足でエントランスへ入っていった。誰も来ないようロックかけ、ただの一度も振り返らなかった。それから真っ暗なリビングでコートを脱ぎ捨て、ソファーに顔を蹲めた。
 ――はぁ……。もう、やだ。
 恥ずかしいことに「ちょっとだけ」とか、そういうことを言ってくれると思ってしまった。ぐずぐずしている内にそのまま眠りに落ちてしまい、覚えたてのアルコールがわたしに夢を見せた。圭介くんがただいまと帰ると、女の子が出迎える夢。その女の子がころころ変わる。金髪の美女だったり、有名俳優、今日会ったわたしの友達だったり。更に最悪だったのがそれが絶対に自分以外ということ。
 どうせならもっと素敵な夢を見せてくれたら良いのに。
 わたしの潜在意識は意地悪だ。

夢から醒めて